足立仁十郎を追う

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足立仁十郎関連略年表

和人参貿易商・足立仁十郎と会津藩、長崎の関連を年表にまとめてみた。
 活用した史料は、「会津藩御用達足立家について(長崎談叢69号掲載)」「海を渡った会津和人参」ほか

足立仁十郎関係年代表
年  代 足立仁十郎関係 会津藩関係 長崎関係・幕府関係
明和3(1767)   ・5代容頌公 幕府より人参の種を受け、
諏訪原に蒔く
 
寛政7(1795)   ・江戸北薬園の本草家をまねいて人参栽培を奨励  
享和元(1801) ・仁十郎、但馬国与布土に生まれる    
享和3(1801)   ・家老田中玄宰が出雲から人参種子を買い入れ、会津一円に作付けを図る  
文政3(1820) ・大阪の薬種商「田辺屋」に奉公に出る ・人参栽培が次第に会津各地にひろまり、耕作民自ら大阪商人と取引をするようになる。  
文政5(1822)   ・領内人参は大阪の田辺屋作兵衛に販売を一任  
文政9(1826) ・文政9から天保2年にかけて、人参指導のためたびたび会津に赴く。このころ、から足立性を名のるようになる。    
文政12(1829) ・このころ、長崎に田辺屋の屋号の店舗を構える。 ・人参を藩専売制にし、人参奉行を設ける。
・8代容敬公、幕府に清国への輸出許可の申請を出す
・幕府からの要請で、長崎会所が会津藩と 清国との取引の調整をする
天保元(1830) ・長崎の藤井啓衛門の娘茂登と結婚   ・会津藩の人参1万斤(6トン)、長崎会所の仲立ちで清国へ輸出
天保3(1833)   ・幕府が諸国人参中会津人参一万斤ほかの輸出すべからずとの示達。=会津人参専売輸出。翌年出雲の人参も専売輸出品になる。   
弘化元〜安政4   ・この14年間で会津人参の生産量が4万斤に激減する ・安政2年、幕府は長崎に海軍伝習所設置
・安政3年、日米和親条約で米総領事ハリスが下田に着任
安政5〜万延元
(1858~1860)
・仁十郎妻茂登死・このころ会津藩に1万両用立て(献金)
・会津藩人参売捌方用足・足立監物として五百石で会津藩に召抱えられる。59歳
・5万斤に急増。安政6〜万延元の2年で18万斤
 輸出の最盛期
・安政5年、安政の5カ国条約締結
・14代将軍家茂
・安政6年、横浜、長崎、箱舘開港
・安政7年、咸臨丸アメリカへ
文久2(1862) ・仁十郎、酒井を丸山花月に招き、3万両を用立て(献金) ・9代容保公、京都守護職を拝命
・人参片勤・酒井文吾が資金調達のため長崎へ.。神保修理も長崎遊学中
 
元治元(1864) ・会津藩御聞番勤肥前長崎表住居の御側衆になり七百石に加増。63歳
・池田屋事件、禁門の変 ・グラバーが艦船や武器、お茶などの取引や金融代理業をはじめる
慶応2(1866) ・会津藩役人来崎、寅年人参代金の前払い金として3万両を要求、調達して会津に送金
・会津藩山本覚馬、中沢帯刀が長崎へ
・江戸屋敷詰め用人が寅年人参を長崎に回さず、横浜で売ってしまう。
・薩長同盟
・徳川慶喜が15代将軍に
・後藤象二郎が西濱町で「土佐商会」の業務を開始。
慶応3(1867) ・会津藩・足立泉の名前で、ドイツ人カールレーマンに剣付きゲーベル銃4300挺と付属品、弾丸製造用機械、材料を発注。(会津藩分1300挺と弾丸製造用一式、和歌山藩分3000挺と弾丸製造用一式。山本覚馬、中沢帯刀の指示による)
・寅年人参が届かないので交渉。拉致があかないので会津に出向き交渉。寅年の売れ残りと卯年分で精算、それでも不足分があるので、その分も人参を送ってもらうようにした。
  土佐藩は「亀山社中」を「海援隊」と称し、藩の付属に
・「長崎会所」が廃止。仮御金蔵と改称
・大政奉還・王政復古
慶応4.明治元
(1868)
・会津藩加担を理由に維新政府に家屋家財の一切を没収される。(首謀者は長州藩士・井上聞多(馨) ・戊辰戦争
・会津戦争、鶴が城開場
・容保公、因幡国鳥取藩に永預り処分
・嫡男容大(かたはる)が家名継承
・長崎奉行・河津伊豆守が外国船アトリン号で長崎を脱出。長崎奉行西役所が長崎会議所になり、すぐに「長崎裁判所」が発足。長崎府発足
・長崎四番崩れ
・倒幕軍・318人が英船フイロン号で東北遠征に向けて出発
明治3(1870) ・仁十郎、陸奥国斗南(青森県むつ市)へ赴く
・足立泉を名乗り、旧会津藩留学生の保証人になる。(長崎は前から養子程十郎が継いでいたが、権限は仁十郎にあったようだ)
・カールレーマンが、北独連邦領事シャットレルを通じて、足立監物と御用達松永喜一郎に対し、慶応3年売り渡した銃の代金支払いの訴えを長崎外務局に出す
   
明治4(1871) ・程十郎、慶応4年没収された会津人参代金2万円の下げ戻し嘆願書を長崎県に出す
・但馬国与布土・夜久野ケ原で人参試作
・容保公、斗南に預替え、のち、江戸に移住
・斗南藩は廃藩置県で斗南県となり、弘前県を経て青森県に編入
・井上聞多、嘆願書を無視、長崎県令宮川房之、嘆願書を差し戻す
・廃藩置県
明治7(1874) ・程十郎、慶応4年没収された会津人参代金2万円の下げ戻しを再嘆願    ・前年の明治6年、徴兵令
・台湾出兵
明治8年     ・宮川県令、嘆願書に対する伺いを内務卿大久保利通に送るが、大久保は付き返してくる。
明治9年 ・人参代金下げ戻しの嘆願を再度提出   ・廃刀令・佐賀戦争
・新県令北島秀朝が嘆願書の内容を再調査し、中央に再願処置をする
明治10 ・没収された東浜町足立家の屋敷に長崎警察所を設置  


・西南戦争
明治11 ・訴願決着し、新国債で16000円下げ戻しとなる
・興善町足立程十郎が、東浜町井上久兵衛、本紺屋町鹿児島弥吉と共に精米の鑑札を取得

 

・明治13年、容保公が日光東照宮宮司となったなる

 
明治14 ・仁十郎、故郷与布土で他界。81歳    
       
       
       

 


 

 

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