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壬生浪士組のお手当だって払っていたかも?足立仁十郎
先日、南島原市の歴史愛好者の方々の前でお話する機会を得たので、そのレジュメとして、足立仁十郎と会津藩の関係を年表にまとめてみた。足立家の出来事、会津藩のできごと、長崎や幕府の出来事などを年表に起こしてみるとなかなか興味深いし、一人の人物を取り囲む歴史的背景がよくわかっておもしろい。

その中でも、仁十郎の献金がどの時点で用立てられたかということが興味深かった。

会津藩が長崎会所を通して清国に和人参(朝鮮人参)を輸出し始めたのは、天保元年。8代容敬公の時代。そのころまでの会津藩は、永年にわたる借金の返済もすみ殖産興業にまい進していたころかな。それから慶応3年までの約30年間、ほぼ毎年清国に向けて和人参を輸出している。和人参輸出の定期的な収入は会津藩の大きな収入源であり、藩の財政の支柱の一つだったことがこれらのことからもわかってくる。


記録では、足立仁十郎は、安政5年から万延元年ごろ、会津藩に1万両を用立て(献金)ている。
その頃の会津藩主は、9代容保公。安政6年にはそれまでの江戸湾砲台警備から蝦夷地開拓警備に転任。会津藩内では、安政の大地震の後でもあり、農民による打ちこわしや一揆も起きている。
1万両の献金がどれほど会津藩にはうれしかったかは、その後の仁十郎お取立てでもわかる。献金の年、50歳の仁十郎は、会津藩人参捌方用足・足立監物として、5百石扶持で会津藩士に取り立てられている。

次の用立て(献金)は、それから、すぐ後の文久2年。なんと3万両を用立てている。
文久2年といえば、会津藩主容保公に京都守護職の任が下った年。
幕府は、京都守護職の役料として5万石と旅費3万両を貸与した。
京都守護職になれば、朝廷や公家との接触も多く交際費などもかかるし、守護のための武器や兵力も自前で備えなければならない。藩兵の出張費や留守家族への手当てなど、さまざまな出費がかさむ。この出費のために、藩内は守護職拝命の賛否で揺れ動いたほどだ。

会津に伝わる「しぐれ草紙」には、資金調達のエピソードが書かれている。
京都守護職拝命はたいへんお金のかかることで、藩は、人参方勤務の酒井文吾を2万両の資金調達のため長崎に向わせる。文吾は、長崎で足立仁十郎に1万両上乗せして3万両の用立てを頼むが、仁十郎にしてもすぐに3万両がそろうわけでもない。仁十郎は花月で文吾をもてなした時、酒の席の勢いで8杯のギャマンの大杯をみせ、これを全部飲み干したら3万両を用立てましょうという。文吾は酒に弱いことを仲のよかった仁十郎は知っていた。その席には長崎遊学中の神保修理もいた。文吾は、修理に証人になってもらい、死ぬ気で飲み干し、3万両とギャマンの大杯を獲得した。ということらしい。

足立仁十郎はこのとき、幕府が会津藩に貸与した金額と同額を用立てていることになる。
3万両とはどれくらいのお金かと言えば、
・千両役者という言葉があるが、年間千両を稼ぐ役者と言うことらしい。千両は今の金額で2、3億円くらいらしい。ということは、一万両は2,30億円、3万両となると60億から90億円となる。
数年前の1万両を合わせると5年くらいの間に100億円くらいの金を用立てたことになる。
これが、表向きは借金だが、実際には帰ってこない献金なのだ。

新選組ファンとしてこれをみると、芹沢鴨や近藤、土方たちの押借りがかわいらしく見えてしまう。
会津藩御預となった壬生浪士組のお手当ても案外、この仁十郎の献金から出ていたのかもしれない。
少なくとも、仁十郎の献金がなければ、浪士集団を抱えるほどの余分な資金はなかっただろう。

その後も、ちいさな献金はひっきりなしだったのではないかなあ。
さらには、慶応2年か3年、人参代金3万両を前渡して、人参は送られてこなかったという契約不履行という仕打ちにもあっている。
しかし、仁十郎は斗南まで同行して最期まで会津と共に生きている。

幕末の会津藩の資金的側面を支えた人参貿易とそれを一手に引き受けていた長崎の豪商・足立仁十郎のことは、もう少し知られてもいいのではないかと思えてくる。


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会津藩御用達・足立仁十郎の「田辺屋」があったところは今デパート。
ひょんなことから足立仁十郎について、調べてきたが、足立仁十郎と「田辺屋」に関して、ぼちぼちいろいろな情報が集まってきているので、それを覚え書き程度に書き連ねていこうと思っている。

まずこれまでに足立仁十郎に付いてブログに書いたのは
●気になるお菓子「会津葵」とついに対面!そして、足立仁十郎を追いかける。2005年 10月 27日●会津藩御用達商人 足立仁十郎の墓2005年 10月 30日 
●明日は長崎歴史文化協会でプチ講義2005年 11月 28日
●ついに、会津藩御用達足立仁十郎と対面!2006年 01月 27日 
●会津に名を残す長崎の豪商・足立仁十郎を追って2006年 03月 14日

今回の覚書は、田辺屋の場所の変遷===========

本馬貞夫氏が昭和59年に書かれた「会津藩御用達足立家についてー幕末長崎の人参貿易商」によれば、足立仁十郎の「田辺屋」は、今の長崎の中心街「浜町」のど真ん中「浜屋デパート」のところにあったという。
600坪以上の敷地に立派な建物が建っていたらしいが、その土地家屋も没収され、その後、その土地家屋はそのまま「警察所」として使われたと書かれていた。

明治2年、箱舘戦争も終わり国内は新しい勢力によって塗り替えられたが、それらの勢力の中味は必ずしも一致していなかったようで、明治6年、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣、江藤新平などの下野とともに各地で不平士族の反乱の気配が起こったようだ。(佐賀の乱などは、実際に反乱があったわけではく、政府側の陰謀による成敗との説も出てきているのですべてが反乱だったとは言えないようだ)
そこで、軍事戦略的にも要所である長崎での警備や情報収集が重要だということで、長崎に多くの警察官を派遣した。そのため、長崎では警察施設の拡充の必要が出てきて、港にも近い中心街の広い敷地をもつ没収物件をそのまま警察所にしたのだろうということらしい。

最近読んだ「新・長崎風土記」(永田信孝著・長崎出島文庫)に、長崎都市域の拡大の様子を見るため水帳という土地台帳のようなものから起こした略図が掲載されていた。その略図がたまたま東浜町のものであり、足立の田辺屋があったまさにその周辺のものだった。

以下に掲載した2図はの上図は>「新・長崎風土記」に掲載されたものののコピーに私が着色したが、
・上の図は明治元年の東浜町。
下の図は明治20年の同一場所。

・上図で緑色に塗っているところは「田辺屋程十郎」もしくは「足立程十郎」と書かれている。足立程十郎は仁十郎の養子に当たる人で、仁十郎が会津藩家臣になってからは長崎の商売は表向き程十郎が継いだようなっていたのだろう。

・下図のピンクで塗っているところには「八十八番 警察所敷地六百六十三坪七合六夕 官用地」となっている。

・上図、下図でオレンジに塗っているところは、田辺屋周辺で、2つの図で同じ名前の処。20年間持ち主がかわっていないところだ。

この2つの図を見て、足立仁十郎・程十郎の田辺屋がほぼそっくり警察所になったのがわかるし、それ以外の離れた足立の土地は個人に売り払われている。

上図の田辺屋周辺には、品川屋、尾道屋、などわりと大きい敷地を持った屋号があるが、明治20年の図には、それらは見当たらない。名前からしてどこかの藩の御用達だったのだろうか。

官用地となった田辺屋の敷地がその後どのようないきさつで今のデパートになったのかも、それなりに興味深い。

上図

下図


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会津に名を残す長崎の豪商・足立仁十郎を追って

長崎の郷土史研究家・越中哲也氏から、長崎歴史文化協会研究室が発行している長崎歴文短信「ながさきの空」283号に掲載してはどうかと誘われたので、足立仁十郎について書いた。
「ながさきの空」は十八銀行の本店支店に置かれているが、そろそろ次号と変わる頃だ。
そこで、アーカイブをこのブログに残しておこうと思う。


「会津に名を残す長崎の豪商・足立仁十郎を追って」 

会津若松市に「かすてあん会津葵」というお菓子がある。長崎のカステラとは違った風味のカステラ生地に上品な晒し餡が入り、表面には藩公の文庫印「会津秘府」が刻印されている。このお菓子の栞に驚くことが書かれていた。その部分を抜粋する。

…前略…
ではどうして長崎からはるか離れた山国会津に数多くの南蛮文化がもたらされたのでしょう。それには二つの大きな潮流が考えられています。
一つはレオという洗礼名を持つ隠れもなきキリシタン大名蒲生氏郷、他の一つは長崎にあって会津人参の貿易を一手に引き受けていた豪商足立仁十郎であります。仁十郎は二年に一度会津を訪れて南蛮文化をもたらしました。
…後略

会津には、戊辰戦争の象徴として『泣血氈』(きゅうけつせん)という赤い布キレがある。会津戦争終結時に藩主松平容保公がその上に立って降伏謝罪をしたという緋毛氈を忠臣たちが「この日を忘れないように」と切り分けたものである。そしてこの緋毛氈は足立仁十郎が会津公に献上したものだと言われている。
また、会津の民芸品「会津唐人凧」のもとになる唐人凧を伝えたのは仁十郎だという言い伝えもあるようだ。
『慶応年間会津藩士名録』によると仁十郎は足立監物という名で七百石・御聞番勤肥前長崎表住居の御側衆という高待遇で会津藩士に取り立てられている。
幕末の会津の歴史に顔をだす長崎の豪商・足立仁十郎ではあるが、地元長崎の郷土史関係の書籍には、その名前すら載っていないし、仁十郎の足跡はなぜか長崎では、ぷっつりと消えてしまっている。

 昨年夏、長崎県立図書館で『足立仁十郎伝』(藤本勉著)という13ページほどの私家版を見つけた。しかしその中にも長崎での足跡は記録されていなかった。   
偶然にもその日、県立図書館副館長の本馬貞夫氏から、昭和59年発行の『長崎談叢69号』に本馬氏ご自身が足立仁十郎について書かれたとの情報をいただいた。タイトルは『会津藩御用達足立家について―幕末長崎の人参貿易商―』。
本馬氏は、県立図書館蔵(当時)の「明治九年庶務課庶務係事務簿―足立程十郎人参販売一件書類」という史料に出会ったのをきっかけに、会津藩和人参貿易を長崎会所が引き受けたいきさつ、幕末期の和人参貿易の実態、足立仁十郎とその周辺、養子足立程十郎による没収人参返却の訴えとその決着などを調べ、覚書としてまとめられている。

 本馬氏の覚書によれば、会津藩が足立仁十郎を通して和人参(薬用人参、俗にいう朝鮮人参)の輸出をはじめたのは天保元年(1830)。文政12年(1829)幕府は正式に長崎会所を介して清国への輸出を許可している。足立家は屋号を『田辺屋』といい、現在の浜屋デパート周辺に600坪以上の敷地をかまえた薬種問屋だった。

 足立仁十郎は、享和元年(1801)但馬ノ国与布土村森(兵庫県朝来市山東町与布土)の郷士の家に生まれている。若い頃大阪の薬種問屋『田辺屋』(田辺製薬の前身)に奉公し、その間会津和人参の業務に携わり、やがて「のれんわけ」のかたちで長崎に会津人参御用達『田辺屋』を開いたようだ。
 当時、海防警備役などで、財政破綻寸前だった会津藩にとって、和人参輸出の収益や仁十郎の3万両を超える献金は大きな支えになっていた。それに報いるように会津藩も仁十郎を手厚く遇している。
 仁十郎の菩提寺でもある兵庫県山東町与布土の玉林寺に仁十郎の肖像画があると聞き、ご住職にお願いして写真をいただいた。仁十郎66歳の時の姿らしい。裃の紋は足立家の家紋だが、着物の袖に葵の紋が入っている。着物は会津公から拝領したものだろう。会津藩の仁十郎に対する感謝の気持ちがうかがえる。幕末になると仁十郎は会津藩の武器購入にも関わったらしく、ドイツ人武器商人カール・レーマン等について書かれた『近代日独交渉史研究序説』(荒木康彦著)の中にその名が出てきた。
                                        
 戊辰戦争後は、朝敵にされた会津藩の御用達に対する風当たりは厳しく、慶応4年(1868)3月、新政府が設立した長崎裁判所の参謀となった長州藩士井上聞多は、強制的に足立家の輸出用和人参を没収した。その結果足立家は家屋・家財一切を手放さざるを得なくなり、急速に没落していったようだ。
 そのような逼迫した状態にあっても足立家は、旧会津藩士子弟の九州留学の身元引受人をするなど、会津藩との関係に筋をとおしている。足立仁十郎とその一族はビジネスでは失敗者だろうが人間的なまっとうさを感じさせる。

 その足立仁十郎と家族の墓所が祟福寺裏山の墓地にある。お寺側の話では、すでに長崎での血縁は途絶えているらしく、お参りの人もほとんどないと言う。仁十郎とその妻の墓石には「祟福外護」と刻まれている。この墓は長崎に残る数少ない足立仁十郎の足跡だ。
 この正月4日、祟福寺の足立家の墓所を訪ねた。墓石の中に長崎の国学者で長崎市史の編纂に参加した半顔足立正枝(大正10年没)の名も刻まれていた。先日足立家の墓域を訪ねたら、それぞれの墓石の前に小菊が供えられていた。誰がお参りしたのだろうか。子孫の方がいらっしゃるのだろうか。仁十郎への興味がますます膨らんでくる。

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足立仁十郎の「田辺屋」没落の原因に長州ファイブの一人・井上馨が絡んでいた。


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ついに、会津藩御用達足立仁十郎と対面!

大河「新選組!」がきっかけで、会津に関する多くのブログをまわった。そんななかで、会津の銘菓「会津葵」を知ったが、その栞に会津に南蛮文化を伝えた一人として長崎の豪商足立仁十郎という男が登場した。あの「泣血氈」となった毛氈の献上主だとも言われている足立仁十郎だが、長崎でほとんど知られていない。足立仁十郎とはだれか、なぜ長崎で足跡が残っていないのかが気になって、昨年からぼちぼち調べていた。このいきさつや経緯は
●気になるお菓子「会津葵」とついに対面!そして、足立仁十郎を追いかける。
 ●会津藩御用達商人 足立仁十郎の墓
に書いたが、その後も、長崎県立図書館の郷土課(当時)の史料室などにある長崎会所の貿易史料や長崎の在野の歴史研究家たちが研究を発表している「長崎談叢」という本から、すこしつづ足立仁十郎の姿が見えてきた。

そして、ついに「足立仁十郎」の肖像画に対面できた。
13年ほど前に発表された会津若松市の林俊氏の研究発表の本に足立仁十郎の誕生地のことが書かれていた。そのなかで、菩提寺に肖像画があると書かれていた。

仁十郎は、享和元年(1801)但馬之国(今の兵庫県)与布土村の郷士の次男として誕生し、成長してから大阪の薬種問屋「田辺屋」に奉公している。このころ「田辺屋」は会津の和人参を取り扱っており仁十郎はその指導や買い付けに行っていたようだ。その後、仁十郎はのれんわけのかたちで長崎に「田辺屋」を開くことになり、会津和人参の取引も引き継いでいる。大阪の田辺屋というのは現在の田辺製薬の前身になるらしい。

仁十郎の菩提寺は故郷与布寺の玉林寺で、長崎の祟福寺の足立家墓所にある墓は養子で幕末の人参貿易の実務を取り仕切っていた程十郎やその身内の人々が分骨などして建立したもののようだ。長崎の仁十郎の墓には祟福外護と彫られているのはそんないきさつからかもしれない。

昨年、玉林寺のご住職を紹介していただき、肖像画のことをお尋ねしたら、たしかにあるということで、このたび、長崎の歴史文化協会会報に足立仁十郎について書くことになったので写真をいただけないかとお願いしたら、快くひきうけてくださった。

とどいた写真は彩色の肖像画だった。
仁十郎66歳のころの姿らしく、裃の家紋は、長崎の足立家墓所の家紋と同じだった。
興味深いのは裃のしたの着物の袖にある家紋。これが「三つ葉葵」なのだ。おそらく会津公からの拝領の着物なのだろう。
仁十郎はこのころすでに会津藩に藩士として取り立てられていたのだが、彼がいかに会津藩から厚遇されていたかがわかる。それだけ和人参の貿易は会津の財政を支えていたということだ。(『慶応年間会津藩士名録』によると仁十郎は足立監物という名で七百石・御聞番勤肥前長崎表住居の御側衆という高待遇で会津藩士に取り立てられている。)

もう1つ興味深かったのは、仁十郎の小刀の鍔。長崎の郷土史家越中哲也氏のよれば、この鍔はたしかに「長崎鍔」の意匠ということだ。

足立仁十郎の肖像画だけでも、会津と長崎と与布土をつなぐ確かな接点が読み取れる。
私が、足立仁十郎という人について調べているということは、長崎市内の歴史研究の人々にも少しは知れ渡ったらしく、「史料を調べていたら足立という名前がでてきたわよ」と教えてくださる方も出てきた。自分の興味は多くの人に伝えることが大事だなあと思い知らされる。

足立家の衰退の理由もわかった。幕末維新の大転換に翻弄された商人の姿がそこにあった。大事のためには少しの犠牲は…というようなことがよく言われるが、足立家に起こったことを見ていくと、明治維新がいかに庶民の犠牲を強いていたかもわかる。また、その事件には長州ファイブの一人が大きく関わっている。そのことはまたあとで、書いていくつもり。
まずは仁十郎の肖像画と対面したことを報告しておこう。

※なお写真には、無断転載の防ぐためにわざと文字をいれています。また、写真の映像は肖像画の一部であり、全体像ではありません。


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会津藩御用達商人 足立仁十郎の墓

会津藩御用達の豪商足立仁十郎は、長崎を拠点にしていながら長崎ではほとんど知られていない。会津の人には信じられないだろうが決しておおげさなことでない。長崎でアトランダムに100人に聞いてもおそらく1人も知っている人はいないだろう。
賊軍の象徴・会津藩の御用達だったことが足立家を長崎の歴史の表舞台から抹殺することになってしまったのだろう。それでも、会津和人参の貿易を取り仕切っていた長崎会所の記録などに足立仁十郎のビジネスのようすが残っているようだ。

会津藩は享保年間ごろから、藩内で朝鮮人参の栽培に取り組み、幕末には会津和人参の名前で清国に輸出していた。価格と出荷の安定を図るために輸出の取りまとめを幕府に要請し、幕府は長崎奉行をとおして長崎会所に任せた。この貿易を一手にひきうけたのが長崎の豪商足立仁十郎だった。
足立家の屋号は「田辺屋」。田辺屋は、当時の東浜町(現在の浜町アーケードのど真ん中あたり)に100坪以上の店構えだったらしい。(長崎には榎津町に「海老屋」という屋号のもう1軒の足立家があったが、こちらは柳川藩御用達だったと子孫の方から聞いた。)
こんなに繁盛した豪商が明治維新急速に衰え消えていったのには、それなりの理由があるのだが、それはまたの機会にゆずるとして、家屋敷は消えてしまっても墓所は残っているはずと言うわけで調べてみた。

我が家のある風頭山のふもとに「黄檗宗聖壽山祟福寺」という唐寺がある。赤い竜宮門で有名な観光名所だ。ここの墓所に足立家の墓があった。
昔の長崎の墓所独特のアーチ型の門構えの中に足立仁十郎とその息子など一族の墓碑が立っていた。仁十郎の墓はやや大きい。墓標によれば、足立仁十郎智義は明治14年9月7日に81歳で亡くなっている。墓標に刻まれた家紋は花菱。
ご住職の話では、足立仁十郎ゆかりの人々は、長崎にはおらず、すでに家系も途切れているらしい。それでも、ときどき、会津藩士縁の人や会津からの旅行者が仁十郎の墓をたずねてくるらしい。
足立仁十郎。
まだまだ彼の後姿を垣間見たようなささやかなかかわりだが、追いかければもっと魅力的な事柄にであいそうだ。


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気になるお菓子「会津葵」とついに対面!そして、足立仁十郎を追いかける


ここ1月ほどずーっと気になっているお菓子がある。
「カステアン・会津葵」という、会津若松の老舗「会津葵」さんのお菓子だ。

長崎と会津のつながりを調べていると話したら、「長崎からの伝来ということでカステラに餡が入ったお菓子が会津にあるよ。」と教えてくれた人がいた。それが、「会津葵」。
私の中にある会津のイメージは、南蛮文化などとはかけ離れた美しく格式高い日本文化のそれも武家の文化が浸透した街だったので、かなりの驚きだった。
さらに、大きな驚きにであったのは、「会津葵」を食べた人のサイトにその「お菓子のいわれ」の文章が抜粋して掲載されていたのを読んだときだ。

 謎の南蛮文化と会津葵
…前略…ではどうして長崎からはるか離れた山国会津に数多くの南蛮文化がもたらされたのでしょう。
それには二つの大きな潮流が考えられています。一つはレオという洗礼名を持つ隠れもなきキリシタン大名蒲生氏郷、他の一つは長崎にあって会津人参の貿易を一手に引き受けていた豪商足立仁十郎であります。仁十郎は二年に一度会津を訪れて南蛮文化をもたらしました。会津の不思議な異国趣味。それを運んだ二つの潮流の接点に生まれたのがカステアン会津葵です。弊舗秘法の餡入りカステラ。会津葵は藩主松平家の紋どころ、お菓子の押文様は藩侯の文庫印「会津秘府」をうつしたものです。…後略…(上菓子司会津葵製造「カステアン会津葵」に同封されている小品説明より抜粋)


長崎の豪商・足立仁十郎という名前が出てきたが、その名前は長崎生まれ長崎育ちの私にも初耳だった。
この日から、頭の中は足立仁十郎でいっぱい。
とりあえず、まずは原点の「カステアン会津葵」をお取り寄せし、長崎のカステラとはまったく違う風味の餡入りカステラをいただきながら、伝記や小説があるか調べてみたが、ない。
長崎の歴史に詳しい知人たちに聞いてみても、教師で郷土のことを教えている人に聞いても足立仁十郎を知っている人がいない。今の長崎で「あだち」といえば地場の総合商社株式会社安達商店というのがあるが、そことはまったく無関係だ。
長崎大辞典など、郷土のことを調べるために書かれた、図書館で持ち出し禁止の本など、手当たり次第に調べていくが、長崎の中に「足立仁十郎」という名前が残っていないのだ。

翻って、会津関連の書籍を調べてみようとサイト検索をしてみたら「会津戦争全史」の著者星亮一氏のオフシャルサイトにヒットした。そこから入った講演記録のなかに、


前略… 「泣血氈」というのがあります。長崎の商人、足立仁十郎から会津藩に贈られた、赤い絨毬です。あの降伏の式の時に路上に敷いて、松平容保がそこに立って、謝罪をした、あの絨毬があります。その日出席した内藤介右衡門とか梶原平馬、萱野権兵衛ら何人かの人が切り取って、絨毬を分けあいました。それを泣く、血の、毛氈の氈「泣血氈」と名づけて、「この日を忘れないように」持ち帰ったのです。…後略

という内容を見つけた。会津では間違いなくこの人の名前が記録されているのに、地盤の長崎には、記録されていないのだ。
幕末の志士たちの活躍の舞台の1つでもある長崎は、いつのまにか自分たちも新しい時代を開いた勢力の一つであると自負し、旧幕府に関わった人や事柄を抹消してきたのだろうか。積極的に抹消したわけではないが、あまりふれたくないものとして無視し、その果てに忘れ去ってしまったのだろう。あまりに悲しい。
そうなるとよけいに気になってしまう。絶対に見つけてやる。そうでないと足立仁十郎がかわいそうだ。
ジタバタあがくと何かに引っかかるもので、足立仁十郎に関する本がたった1冊存在することを知った。貿易の視点から足立仁十郎を調べた人を知った。豪商足立仁十郎の大邸宅兼店舗の場所が分かった。この場所がわかったことで、「落花は枝に帰らずとも」で秋月悌次郎が長崎遊学時に西浜町の宿屋に拠点を置き、唐通詞を雇って唐人屋敷を見学した理由も推測できた。

「会津葵」のおかげで、長崎と会津との大きな接点となる人物にたどり着けた。
調べたことは、今後、このブログとそれをまとめるホームページに書いていこうと思う。
まずは、足立仁十郎の墓所探し。そこを出発点にしてみようと思っている。

※写真は「カステアン会津葵」と「小法師」。同店の「小法師」というお菓子も一緒に取り寄せたがかわいい「起き上がりこぼし」が入っていた。今年出会ったお菓子で一番のお気に入りになった。


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製作・著作:平野惠子
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