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ブログその他に書いたコラムの中から歴史に関連するものを集めました。
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旧会津藩士・日下義雄が長崎に残してくれたもの

日本に近代的な水道が登場したのは明治20年(1887)に通水開始した横浜水道で、2番目が明治22年通水の函館水道、そして3番目が明治24年完成した長崎水道だ。
首都東京にも近代的な水道がひかれていない時代に横浜、函館、長崎には、今のような水道があったのだ。ちなみに、東京に近代水道が開通するのは淀橋浄水場が完成し、神田・日本橋地区に初めて給水された明治31年だ。              

長崎の水道が、先輩2つの水道と違うのは、日本最初の水道専用のダムを持った貯水池式の水道だったことだ。現代の水道とおなじような設備は、長崎の水道が最初ということになる。
日本最初の水道専用ダムは、「本河内高部水源地」という名称で、長崎市中心部で長崎街道始終点にあたる蛍茶屋の近くに現存しているし、今も市中心部の水がめとして活躍している。
長崎の水道100年の年に、長崎県の水道施設のパンフレットをディレクションしたことがあるが、そのとき、この施設をくまなく見学した。高さ18.15m、長さ127.27mの盛土方式のダムの堰堤は、コンクリートダムとは違った格調高さと美しさがあった。煉瓦造りの浄水施設内部はまるでヨーロッパの地下道のような幻想的な雰囲気だった。

この事業を計画立案し、粘り強く住民を説得して実現したのが明治19年(1886年)長崎県令(県知事のようなもの)に着任した旧会津藩士の日下義雄だ。

前回の文章でも紹介したが、日下義雄は、本名を石田五助と言い、嘉永4年(1851)会津藩医・石田龍玄の長男として生まれた会津藩士。弟の石田和助は、白虎隊二番士中組に属し飯盛山で自刃している。当時17,8歳の日下義雄も白虎隊士だったのだろうか。
城外で戦っていた日下は城に入れず籠城戦をあきらめて大鳥圭介たちとともに会津を脱出し、箱舘戦争も戦い、捕虜に。赦免された後は、長州藩士日下家の養子になって日下義雄に改名。井上馨の推薦で岩倉欧米使節団に同行してアメリカ留学を果たし、ヨーロッパを視察し、ロンドンで経済学を収め、帰国後役人になり、長崎県令になった。

長崎を国際的な町にするには、水道の敷設が必要事項と考えた日下だが、そのための費用は当時の長崎区予算の7倍にもなるため、水道建設事業は、住民になかなか理解されず、加えてよそ者の県令への風当たりは相当強くかったらしい。激しい反対運動もあったが、3年をかけて粘り強く説得を続け、やっと着工に至ったらしい。
日下義雄が、北原雅長を初代長崎市長に推薦したのもこの時期。
長崎という異郷で、会津での悲惨な戦いを潜り抜けてきた先輩を見つけたとき、日下はどれほど心強かっただろう。


長崎の近代水道施設が完成した翌年の明治25年、日下義雄は、福島県令として故郷の土をふむことになる。福島県令として3年の在任中に、郡山から会津若松を経て新潟県の新津を結ぶ岩越鉄道建設に貢献している。日下義雄の会津での功績は、会津若松市HPのあいづ人物伝に分かりやすくかかれている。


二人の旧会津藩士が尽力して長崎に残してくれた近代水道施設「本河内高部ダム」。
私の家の水道の水は、このダムとその下流の低部ダムから送られてくる。

私の日常は、あこがれの会津の先人の恩恵にあづかっている。




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土方たちと一緒に箱舘戦争を戦った長崎県知事がいた!

前回、長崎市の初代市長・北原雅長は旧会津藩士、それも家老・神保修理の弟だということを知ったと書いていたら、偶然にも「白牡丹のつぶやき」さんに、神保修理とその妻・雪を主人公にした短編「修理さま 雪は」が紹介されていた。

神保修理が、江戸の会津下屋敷で切腹した半年後の8月、会津戦線で修理の妻・雪も壮絶な自刃をとげている。 修理や北原雅長の父親で家老職の神保 内蔵助もその11月、六日町口の戦いで敗れて、同じく家老の田中土佐と刺し違えて自刃。
北原雅長は、1年たらずで、身内3人を自刃という悲惨なかたちで亡くしている。
(ちなみに、神保修理は近藤勇と同い年、北原雅長は沖田総司と同い年。)

さらに北原雅長は、家老の主席として籠城戦を指揮し、降伏後は会津藩の一切の戦争責任を一身に引き受けた萱野権兵衛の切腹も見届けたと書いてあった。
身近な人が、短期間にこんなに多く理不尽な死を遂げているのを北原雅長はどんなおもいで見ていたのだろう。そんな悲しみさえも吹き飛ばすほど斗南の生活は苦しく悲惨だったのかもしれない。
その後北原雅長は、官吏になって、長崎県で働いていたが、抜擢されて、初代長崎市長になり、次に東京下谷区長をつとめたが、余生は浜松でひっそりと暮らしたらしい。明治37年、会津藩の勤皇の立場を顕した「七年史」を出版している。

その北原雅長を初代長崎市長に抜擢したのは、当時長崎県令(県知事)だった日下義雄。
なんと、この日下義雄も、旧会津藩士。それも箱舘新政府軍として箱舘戦争を戦いぬいた人だった。
日下義雄は、会津藩御殿医 石田元道の子で当時の名前は「石田五助」。弟は、飯盛山で自害した白虎隊二番士中組の一人「石田和助」なのだ。
日下義雄は長崎にすばらしいものを残している。それは、次のお楽しみにしよう。

会津と長崎にはなんの接点もないと思い込んでいたが、調べてみると運命のようなつながりがぞろぞろと出てくる。



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初代長崎市長は旧会津藩士だった。

今年も会津に行けず、ストリーミング中継は繋がらないで、あきらめて机回りの大掃除をしていたら、本箱の奥から古めかしい本が出てきた。
「京都守護職始末1ー旧会津藩老臣の手記」 
山川 浩 著・ 遠山茂樹 校注 ・ 金子光晴 訳 
東洋文庫49 平凡社          

未読の本。6.7年ほど前、長崎の繁華街にあった老舗古本屋が閉店するとき、大方の本を処分されたあと、残りの本をただでわけてくれた。私が立ち寄ったのは最後の日だったので、くずのようになった本ばかりだったが、その中に、この本が残っていた。
当時、すでに「会津士魂」などは途中まで読んでいたが、箱舘新選組に興味がいっていたので、後で読もうと思ってもらってきて、そのままになっていたものだ。

かの地では、藩侯行列があっている最中に、この本が見つかったのもなにかの縁なのだろう。

山川 浩は、会津の俊才の一人で、会津籠城戦の総指揮をとった会津藩家老・山川大蔵だ。
調べてみると、東洋文庫の「京都守護職始末」は1、2に分かれているらしい。

この本についての詳しい解説がブログ「幕末ネット」に書かれていた。
京都守護職始末(2005.5.25、幕末.net)

それによると、この史料は幕末の資料として一級品と言えるものらしく、旧会津藩家老であった山川浩が、会津藩の正義を世に訴えるために明治44年に発行したが、明治維新の真実を揺るがすような内容であったため、発刊される数年前に、明治政府からの圧力で発行が見合わされていたらしい。

しかし、明治37年、元会津藩家老・神保内蔵助の次男・北原雅長が、会津藩の勤皇の立場を顕した「七年史」を出版したことによって、明治44年に山川浩悲願の「京都守護職始末」発行が実現されたらしい。


この幕末ネットの文章で、驚くべき事実を知って、恥じ入ってしまった。
私の住む長崎市の初代市長・北原雅長は、旧会津藩士だったということだ。
さらに、彼の兄は、会津藩公用方として活躍し、慶喜公や容保公に恭順をすすめ、幕府軍敗北の責任を押し付けられ自刃した神保修理。北原雅長は、次男だったので、北原家を継いだため、神保姓ではないのだ。

さらに、驚いたのは神保修理は、会津藩公用方として活躍したとき、洋式小銃の輸入や知識導入の為に長崎にきているのだ。秋月剃次郎もそうだったが、会津藩は、俊才をどんどん他国に出して新しい情報を取り入れている。修理は、大政奉還前に坂本龍馬に会い、勝海舟とも交流があったらしい。それを知ると彼が恭順を説いたわけがわかる気がする。


長崎と会津の接点がこんなところにあったとは!
戊辰戦争前後と長崎の関連を知りたくなった。
まずは、大政奉還がなされたとき、天領である長崎ではどのようなことが起こったか?調べようと思う。天領と言う特殊な土地柄だから、おもしろいことがおこっているかもしれない。




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龍馬を囲んで「こげんよか月は、えっとなかばい」

龍馬を囲んで「こげんよか月は、えっとなかばい」 編集 | 削除


風頭公園にある龍馬の像の前で、「亀山社中ば活かす会」恒例の月見の宴が行われた。

龍馬の像にはススキが飾られ、足元には月見団子も! お酒は?って、もちろん台座のまえにいっぱ〜〜い。でも、すぐに宴席に移動しましたが。今日のお酒のお供えには、甘酒もありました。甘酒を日本酒や焼酎で割って飲むと、これまた美味成り。


司馬遼太郎の碑の前で、龍馬ファンたちがお酒を酌み交わすの図。司馬さん、きっとほほえんでいることでしょう。
酔うとちょっとおもしろい話も飛び出す。「ねえ、いろは丸に、銃は積んでいたんでしょうか?」「あれ、岩崎が別に運んでいると思うよ、海援隊は操船技術はそんなにうまくなかったと思うし」…おいおい、では、龍馬はハッタリで 金、ふんだくったのか!「そうかもね〜〜〜」。こんな話、龍馬様命の熱狂的盲目ファンの前ではとてもい言えないけど、こちらのファンたちは、その点はこなれています。人間的におおまかで、ぱしり上手で、人懐っこくおおらかな龍馬をまるごと好きのようです。こんな人たちの集まりだから、司馬遼太郎記念館も、この地で、「菜の花忌」を開催することを許可してくれたのでしょう。
参加者は長崎ばかりでなく、毎回、福岡や北九州からも駆けつけてくれます。今年は、「亀山社中ば活かす会」がある伊良林、風頭地区が「長崎くんち」の神輿守に当たっているので、神輿を担ぐ人たちも参加してくれました。

この日、長崎の夜は、雲が多くて、なかなか月が出てくれませんでした。雲の切れ間から、ほんのちょっと月が顔をのぞかせるのを見計らって月と龍馬像を眺めつつ、酒はすすんでいきます。会場の風頭山公園展望台は、長崎市の繁華街の真上の高台にあります。眼下には、長崎市街と港の夜景が広がっています。

そして、ついに、最高の瞬間がきました。
月が、龍馬像の肩のあたりまで上りました。雲も晴れてくれました。
龍馬の肩越しに名月を見るのは、この夜ならではの趣向です。

「こげんよか月は、えっとなかばい」(こんなにいい月はめったにないよねえ)。
龍馬ファンには最高の月見の宴ではないでしょうか。

この宴は、お酒や肴をもちこめば、だれでも参加できますし、さらに会の婦人連が作ってくれたおいしい料理もでてきます。あなたも、来年来て見ますか?



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倉場富三郎の遺志が、「グラバー図譜」になって蘇えった日

今日8月26日の昼下がりの蝉しぐれのなか、ウエストコーストの外人墓地(坂本町国際墓地)でささやかな慰霊祭が行われた。

外人墓地の中にある日本人名の墓碑、プロテスタント牧師による慰霊の祈り。なんとなく複雑な背景が感じられる慰霊の対象の人物の名は「倉場富三郎」。あのトーマス・グラバーと妻ツルの愛息だ。

トーマス・グラバーは、鎖国が開けて開港まもない長崎でグラバー商会という貿易会社を起こした英国人。幕末時は、坂本龍馬や薩長土の討幕派を支援し、武器弾薬や艦船などを販売斡旋したり、伊藤博文たち外留学を斡旋するなど活躍した人物。武器商人としては東のスネル、西のグラバーと言われたほどであるが、ご当地長崎では、武器商人という呼び方には消極的。もちろん、日本初の蒸気機関車を走らせたり、炭鉱開発したり、修船場を作ったりと日本の産業発展に尽力している。
維新後、武器が売れなくなったり各藩からの資金回収ができなくなって会社は破産しているので、やはり、グラバー商会の柱は武器の販売であったことはまちがいない。
グラバーは晩年、東京で過ごしているが、お墓は長崎の坂本国際墓地にある。


グラバー家の二代目となるトーマス・アルバート・グラバー、日本名・倉場富三郎は、英国人と日本人のハーフで、その生い立ちがその後、彼の悲劇の枷になる。
彼は、学習院に学び、陸奥宗光のアメリカ公使赴任に随伴して、アメリカに留学。帰国後、長崎の商社で社員をしながら「長崎汽船漁業会社」を起こし、蒸気トロール漁船をイギリスから輸入して近代漁業に貢献している。
このとき、底引き網にかかる多種多様の魚を見た彼は、分類研究できる魚類図鑑を作ろうと思い、私費を投じ、21年かけて完成させたのが「グラバー図譜」(「日本西部及び南部魚類図譜」)だ。
太平洋戦争が始まると、敵国人とのハーフである彼に対する監視の目は厳しくなり、周囲の疑いを晴らすために日本軍に協力する姿勢を見せ続けた富三郎夫婦だったが、敗戦になると、戦争協力者として糾弾されるのではないかとの不安の中、妻が急死。その後を追うように富三郎は自殺している。

富三郎は遺書の中で、「グラバー図譜」(魚類628図、貝類や軟体類をいれて総数805図)を元日銀総裁・渋沢敬三に贈っている。その後、「グラバー図譜」は、渋沢家から長崎大学に寄贈され、現在も長崎大学附属図書館に所蔵されている。

この「グラバー図譜」が、今回、長崎市内の出版社の手で、本になった。
富三郎の死後、60年となるこの日、出来上がった図譜の1冊が、彼の墓に捧げられた。

二つの祖国を愛し続けたために絶望し、自ら死を選んでしまった富三郎の下に、彼が丹精こめて描かせた図譜が戻ってきた。祈りの式典を取り仕切った牧師さんが言った「富三郎さんは、グラバー図譜の本になって蘇りました」という献辞が印象的だった。




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テクノクラート・大鳥圭介は活版印刷をしていた!!

大河「新選組!」続編のシナリオ脱稿の情報で、私も含め、「新選組!」ファンの人々の間では久しぶり「新選組」関連の情報で盛り上がっている。
「東京エゴイスト」さんや「白牡丹のつぶやき」さんが、大鳥圭介について、それぞれの視点で好感を持って書いている記事に興味を引かれた。

私は、大鳥圭介に関する本をあまり読んでいないので、土方関連本や戊辰戦争・箱舘戦争関連本のなかに書かれている大鳥圭介像しか知らない。多くは、土方と対照して書かれている。読んだ範囲では精神論者土方対合理主義者大鳥という構図、行動の人土方対理論の大鳥(ただし、理論だけで行動派だめ)みたいな書き方が多い。英雄・カリスマの引き立て役的な損な扱い。まあ、お話を書くには分かりやすい構図ですし、思い入れしやすいし、定石なんでしょう。

大鳥圭介がどんな性格の人であっても、土方にとっては上司で戦友でしょうから、決して相容れない関係ではなかったはずだ。お互い議論は交わすが、自分に欠けている部分は見習って自分を高めていたのではないだろうか。

こんな、気持ちを持っているのは、我が家にあるたった1冊の大鳥圭介本による。
「大鳥圭介ーー土方歳三との出会いと別れ」
古賀志郎著 彩流社1993.5月発行。
大鳥から見た土方が書かれているが、この大鳥は,3歳年下の生まれも育ちも違う武闘派土方に好意を持ってくれている。一緒に次の時代を生きていきたかったが、やっぱり近藤のところにいってしまったのかと、惜しんでいる。
函館山の碧血碑の建立は大鳥圭介だ。

その大鳥圭介の名前をひょんなところで見つけて大いに喜んだことがある。

この3月、「世界で一番美しい本」にえらばれた「日本の近代活字ー本木昌造とその周辺」の発行と印刷が長崎に関連していたので、NPO法人近代印刷活字文化保存会(長崎県印刷工業組合内)をたずねた。本木昌造は近代活字・活版印刷の父とよばれ、長崎の人である。
そこで、日本の活版印刷の歴史をレクチャーしてもらったが、そこに大鳥圭介の名前が出てくるのだ。

大鳥圭介も活版印刷をしていた!!
それも、幕末にですよ。戊辰戦争に出る前ですよ。

彼は、安政4年、江戸で縄武館(江川塾)という蘭学塾の教官になり、調練や築城、火薬鉄砲の製造法を教えていたそうだ。
この頃から、和文金属活字の製造と兵法の本を翻訳出版にとりくんでいたらしい。文久3年、講武所から分割された陸軍所にも出仕するようになる。(近藤勇が講武所の先生になれなかったころ、彼は先生だったわけで、その頃の土方は、まだ何者でもないトウのたったニート。大鳥圭介は只者ではないよ)

縄武館と陸軍所の授業の、教科書、参考書が20数点現存している。
「築城典刑」「砲火新論」などは漢字カナ交じりの活版印刷で、その半数以上が大鳥圭介が鋳造した活字が使われているとのことだ。
教科書を作るために活字を作ってしまうところなど、大鳥圭介の合理的な発想を象徴するような話だ。やっぱり学問好き。それも興味の赴くまま飛びついて、実際にある程度極めるところが、さすがな人。

印刷という専門分野の歴史の中で「大鳥活字」という活字名が残っているという事実、本好きには堪らない。
「築城典刑」「砲火新論」、一度、見てみたいものだ。




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桜霧つづく朝の風頭山公園


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はうた春雨まるやま生まれ、しかも花月の花の下

タイトルの句は、子どものころ父親から口移しで教えられたもの。小説家・平山蘆江が書いたものだそうです。生粋の長崎っ子なら、「ぶらぶら節」とこの句は育っているうちにいつのまにか身に着いているものです。
先日、白牡丹のつぶやきさんの幕末関係のニュースのなかに

佐賀
「春雨」あでやか 小城でまつり
 端唄「春雨」は幕末に小城藩士の柴田花守が長崎駐在中に作詞したのだそう。

というのがありました。
asahi.comの記事「春雨」あでやか/小城でまつりにリンクされていたので、のぞいたら、丸山音頭をおどっている長崎検番のきれいどころの写真が載っていました。一番手前で踊っているのは、ベテラン芸者さんの美代子さんのよう。その次が、どうも若手の小丸さんみたい。オランダ服はちょっとわからないけど、その向こうは染葉さんのようです。私が好きな勝丸さんもいるはずですが、ここには写っていません。長崎の花柳界も若手が入りだして活性化しています。私たちも、年1回、新年会は料亭で芸者さんと一緒に祝います。

記事に書かれているように、端唄の名曲「春雨」は、弘化3年(1846年)フランスの軍艦3隻が長崎に入港したとき、佐賀藩士として長崎警備に派遣された肥前小城の藩士、柴田花守が、丸山「花月」で遊んだ時に作ったといわれています。曲をつけたのは誰か記録がありませんが、丸山遊女おかつではないかと言われています。
端唄春雨の歌詞を書いて見ます。


「春雨」
春雨に しっぽり濡るる鶯の 羽風に匂う 梅が香や
花に戯れ しおらしや 小鳥でさえも 一筋に
ねぐらさだめぬ 気はひとつ 私しゃ鶯 主は梅
やがて 身まま気ままになるならば サア 鶯宿梅じゃないかいな
サアサ なんでもよいわいな

遊女が自分を鶯に、思いをよせる男を梅にたとえ、あなたをこんなに慕っているのよ、自由の身になれるのならば、あなたと私は鶯宿梅(おうしゅくばい)のようなすてきな夫婦よ、…な〜〜んちゃって。
って、内容でしょうか。これを男が作ったんですね。

この「春雨」ができた弘化3年は孝明天皇が即位し、海防勅書を出しているんです。攘夷論もこの頃からでてくるのでしょうか。
この年、土方歳三、12歳。1回目の丁稚奉公から逃げ帰ってきた翌年。6月には多摩川洪水で、家が流されそうになっています。同じ年齢の坂本龍馬も、6月に母を亡くし、漢学の楠山塾に入門していますが、すぐに退塾しています。

幕末のテーマパークのようだった長崎で生まれた端唄「春雨」。
どんな唄なのか、[端唄ライブ]のサイトで聞くことができますよ。



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本好きの快楽:「世界で最も美しい書籍」に会う

「本木昌造活字復元プロジェクト」記念出版「日本の近代活字ー本木昌造とその周辺」
発行:NPO法人近代印刷活字文化保存会(長崎県印刷工業組合内)
発売元:株式会社朗文堂 A4版 本文454ページ、カラー図版約550点、布クロス上製、ケース付き、定価15000円+税

日本の書籍が、ドイツ・ライプチヒで行われた「世界で最も美しい本展」で最優秀賞に選ばれたというニュースを白牡丹さんのブログ「たまっている幕末関係の記事を一気に」で見た。早速調べてみたら

同展は、権威ある世界唯一の国際ブックデザイン展。今回の受賞は、世界31カ国から628点の中から選出された。中略…受賞作は、ライプチヒ国際ブックフェアとフランクフルトブックフェアで展示されたのち、ドイツ書籍印刷博物館の蔵書となる(印刷新聞より)
らしい。

本のタイトルを見ると、なんと私の街に関連した本ではないか!
近くにあるのなら見たい!見たい!見たい!
早速、NPO法人近代印刷活字文化保存会・本木昌造活字復元プロジェクトの主唱者である本木昌造顕彰会 内田信康会長にお電話して、「見せて欲しい!」とお願いした。快く引き受けていただき、プロジェクトの始まりになった活字復元の資料もある長崎県印刷工業組合をたずねた。

さっそく、見せていただいた本は、真っ白のケースにはいった真っ黒の重厚な本。
本の表紙とケースのデザインはまったく同じでモノトーンの対比になっている。まさに、活字と紙の関係、もしくは活字の母型と活字の関係。
ケースの黒文字を触るとかすかに文字が突起している。まるで紙にインクを盛ったように。
モノトーンのシンプルな表紙デザインだが、この本の中に書かれている事柄の最も本質の部分(本木昌造と彼の仕事に対する敬意)と、その仕事を引き継いでいく人たちの職人気質が伝わってきた。
ブックデザインは、勝井三雄氏。
注目すべきは、印刷・製本が株式会社インテックスという長崎市内にある中堅印刷会社というところ。大日本やトッパンのような日本最大手印刷会社でなくても、地方の歴史ある印刷会社に残っている技術で世界に通用する美しい本を生み出すことができるという事実に感激した。もちろん、大手で印刷したい話があったらしいが、本木昌造による活版印刷発祥の地の技術で印刷したいという内田会長の熱意で、長崎での印刷に決まったそうだが、プロジェクトとしては大きな冒険だったらしい、

主な内容は、日本の近代化の推進に大きな力の1つとなった印刷メディアの歴史をおいながら、その中心となった鋳造活字による活版印刷の導入と普及に大きな役割を果たした本木昌造の仕事を丹念に記録し、多面的に考察したものになっている。
この1冊に、印刷という世界の仕事人たちの知恵と技術がつまっている。

なにより、感動的なのは、「活字」というものの美しさを再認識できることかもしれない。

長崎市の諏訪神社は3300本にもおよぶ木製活字が保存されている。
この木製活字が本木昌造が作った本木活字の母型を作るための原型らしい。
本木昌造は、日本の近代印刷の父。日本語による活版印刷の導入と普及に尽力した人。
幕末の長崎には、印刷の父(本木昌造)と写真の父(上野彦馬)がいたわけだが、なぜか写真の父のほうが全国的に有名で、印刷の父のほうは、長崎市民が小学生のとき、郷土の偉人で学習する程度の評価しかされていない。
印刷業者である内田さんたちには、本木昌造の仕事の評価を高めたいと本木昌造顕彰会を立ち上げ、さまざまに活動してきたらしい。そのなかで、諏訪神社の原型のことを知り、その歴史的意味の大きさを感じながらも、この原型からから当時の方法で活字を復元してみたいと思いにかられ、全国的に呼びかけて本木昌造活字復元プロジェクトを立ち上げたそうだ。すごく歴史的意義のあるプロジェクトだが、どこか、ものづくり職人たちの遊び心が反映されているようでうれしい。
長崎県印刷工業組合の建物の中には、その行程を1から再現した現物や資料が展示されていて、事前に申し込めば作業に支障のないかぎり見学させてくれるという。
本木昌造については長崎県印刷工業組合ホームページに詳しいことが書かれている。

4月に長崎県立美術館が新装オープンする。館長には、美術評論家・伊東順二氏が就任している。メディアアートにも理解のある伊東館長が、「世界で最も美しい書籍」との評価をもらった「日本の近代活字ー本木昌造とその周辺」を収蔵美術品の1つに入れてくれるといいのだが…。1冊の本が美術品と一緒に展示されているのを想像するとちょっといい気持ちになる。


余談だが、組合でいただいた資料のなかにおもしろいものがあった。
日本の近代印刷の年表だ。これによると、日本で最初に活字鋳造をしたのは、江戸の木版彫刻師・木村嘉平らしい。薩摩藩のためだけのもので、普及にいたらなかった。
さらに、興味深いのは、土方歳三と箱舘までいっしょだった大鳥圭介も、縄武館教官になった安政4、5年ごろから和文金属活字の製造と兵法の翻訳出版に取り組んでいる。縄武館陸軍所の教科書や参考書が20冊くらいあるそうだが、その半分くらいは大鳥活字を使っているのだそうだ。福沢諭吉も明治4年に活版印刷で「学問のすすめ」を出したそうだ。しかし、これらの仕事は自分の周辺のためのものであり、印刷技術の普及までは考えていなかったため、技術の伝承は行われていない。


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長崎の「菜の花忌」で小千谷北越戊辰史跡復興支援をアピール

2月12日は司馬遼太郎の命日。彼が愛した菜の花にちなんで「菜の花忌」と名づけられている。
毎年2月12日には東京、大阪で交互に菜の花忌がおこなわれているが、長崎でも行われる。
龍馬の像のある風頭山の展望台には、司馬遼太郎の記念碑がある。記念碑には「竜馬がゆく」の一節がかかれている。
碑文は

船が長崎の港内に入ったとき、
竜馬は胸のおどるような
思いをおさえかね、
「長崎はわしの希望じゃ」と、陸奥陽之助にいった。
「やがては日本回天の足場になる」
ともいった。
 司馬遼太郎(サインの文字で)
  「竜馬がゆく」より


龍馬の海援隊の本拠地「亀山社中」を守っている「亀山社中ば活かす会」が 司馬遼太郎記念財団の許可をえて、毎年命日にこの碑の前で「菜の花忌」をおこなっている。

会長挨拶のあと、2人の会員の方による司馬作品の朗読があった。
福岡の前田さんは「竜馬がゆく 回天編」から、長崎港で龍馬が夕顔丸に乗り移るシーンを朗読。
北九州の樋口博美さんという女性の方は、「峠」から、冒頭部分を朗読。
樋口さんの読んでいる文庫本は、おとうさんから譲り受けたものとのことで、年季の入り方も特別の感があった。親子で読み継がれるなんて、本もうれしいだろうなあ。

樋口さんが「峠」を朗読したのには、わけがある。
「峠」は、長岡藩家老・河井 継之助の物語だが、今回の新潟中越地震で震源地に近く被害が大きかった小千谷は、河井継之助と西軍軍監・岩村高俊たちが会談した小千谷談判の地でもある。
今回の地震で小千谷談判の行われた慈眼寺の会見の間をはじめ北越戊辰史跡がかなりの被害をうけているらしい。

小千谷の人たちも「小千谷北越戊辰史跡復興支援の会」を結成し、募金をはじめた。
そのメンバーの方から、竜馬ファンで「亀山社中ば活かす会」のメンバー樋口さんに、協力依頼が届き、樋口さんは、菜の花忌の席で、小千谷のようすを説明し、協力者をつのるため、今回の朗読に「峠」の冒頭シーンを選んだという。

朗読後、参加者全員、碑に菜の花を供花し、式典を終えた。

式典後は、会食と海援隊の本拠地「亀山社中」でおしゃべり。

特筆すべきは、亀山社中に、孫正義の色紙があったこと。
ソフトバンクフォークス誕生にあたって孫氏は、お忍びで亀山社中を訪問し、自分の立身のバックボーンに龍馬があると話していたとか。
新生ソフトバンクホークスのユニフォームの黄色い2本のラインは「海援隊の旗」をモチーフにしたとTVで紹介されていたが、納得。(ちなみに、海援隊の旗は、赤白赤の横縞)
龍馬ファンは、どこにでもいるんだなあと、感服した。

このブログを訪問くださる新選組ファンや幕末ファンのみなさんにもお願いします。
小千谷北越戊辰史跡復興支援に協力してください。

「新潟県中越大震災被災歴史遺産保全活動への支援募金のお願い」をご覧ください。


●小千谷北越戊辰史跡復興支援の会 新潟県中越大震災被災歴史遺産保全活動への支援募金のお願い
●新潟中越地震:「慈眼寺、再建を」 戊辰戦争で談判の場所(毎日新聞2月4日)

 


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料亭「花月」の勝の扁額、松本良順の扁額

「斜陽館のふすまに勝海舟揮毫の漢詩? 金木・大発見が話題に 落款、筆跡調べ判明 」 という興味深い記事をみつけた。
リンクを飛ぶと、揮毫の写真も付いていた。
ぬるぬるとした勝海舟の文字。文字は体を表すかな?
そういえば、長崎・丸山にある料亭「花月」にも勝の扁額があった。
文字を比べると、似ているのかも…。


幕末の「花月」には、坂本龍馬をはじめ高杉晋作、頼山陽、勝海舟など、歴史に名を残す有名人たちが大いに遊んだところ。
坂本龍馬は、2階座敷の柱に刀傷をのこしている。
このとき、龍馬を花月に連れて行ったのが、「新選組!」にも登場した松本良順先生。このころの良順先生は、ポンペのお弟子さん。

 

 

良順先生の扁額もある。

「吟花嘯月」と書かれている文字は素直で堂々としている。
花や月を詠うほど風流で行きましょうとかいう意味でしょうか。
伸びやかで好きな文字です。

良順先生は、なかなかおちゃめで人に頼られる性格らしく、上野彦馬からたのまれて写真モデルもしている。鬼瓦のような顔に白いおしろいをべったり塗って、興寺町の山門の上に上がってポーズを取っていたら、白塗りの鬼瓦は注目の的になっていた。などという、エピソードものこっている。

もう1つは龍馬。長崎奉行所に文句をいうための書状の下書きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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長崎微熱  http://50s.upper.jp

 

 

製作・著作:平野惠子
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