歴史コラム・長崎の幕末・明治

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ブログその他に書いたコラムの中から歴史に関連するものを集めました。
ブログに書いたものは、リンク先にジャンプしていましたが、ここでは、リンク先URLの表示は省略しています。
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佐古招魂社で慰霊祭

21日の春分の日、長崎市内の「佐古招魂社」で長崎県郷友会主催の慰霊祭が行われた。

佐古招魂社は、長崎の人々にもあまり知られていない場所だが、明治7年の台湾出兵時と明治10年の西南戦争時に長崎の病院で戦死した政府軍の人々を祭ってある。

墓標に刻まれた出身地の多くは長崎県外。
写真にもある背の高い慰霊碑には、この場所に祭られている軍人すべての名前が刻まれているそうだ。

西南戦争と長崎は、あまり関係なさそうだが、当時も長崎はやはり外国との窓口であり、西郷軍は長崎をめざしたとの話もあるようだ。
明治政府は、要所である長崎には早くから目を配っていたらしい。
西南戦争時、別働部隊の一部や警視局の別働部隊などが長崎経由で熊本に向けて出発している。警視局部隊というのは、あの佐川官兵衛や藤田五郎(斉藤一)などが加わっていた警察隊と同じで、彼らは大分に上陸したと思う。
長崎経由で戦場に行った部隊の負傷者は長崎に運ばれてきた。
いくら明治10年といっても、外科手術や弾傷の手当てができる医者は全国にそれほど多くいるわけもなく、やはり、ポンペが育てた医療技術者の多い長崎に運ばれてきたらしい。
佐古招魂社のすぐ下の丘にポンペや松本良順が開設した小島療養所があったので、その周辺と寺町界隈のお寺の多くが長崎軍国病院や長崎警視病院の管轄となって広いお堂などが野戦病院さながら多くの傷病者を収容していた。手当てのかいもなく、亡くなった人々の墓が佐古招魂社に集められ今でも祭られている。

私は、ここに祭られている警視局出身の戦没者、60名の墓碑を調査しているが、調査を思い立ったのは、ここに移されている「振遠隊の慰霊碑」を調べていて、偶然は出会ったから。
60人ほどの警視局戦没者のなかにも福島県出身者がかなりいる。会津や二本松の人たちだろうか?
後日、調査した内容はブログにも書いておこうと思っている。

佐古招魂社は、平常は鍵がかかっているのでだれでもすぐに立ち入れるところではないが、ときどき、子孫の方や墓守を頼まれた方が墓参にこられているようだ。


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三月はさよならの季節?消えていく風景=亀山社中跡も

人との別れだけではない、見慣れた風景とのお別れを知らせる情報が立て続けに飛び込んできた。

平成元年から「亀山社中ば活かす会」の結成とともにボランティアで公開を続けてきた「亀山社中」の遺構が、この3月18日で閉館になる。
この建物は個人所有だったのを所有者の好意でお貸しいただき、活かす会のメンバーがボランティアで公開し管理運営してきた。今回所有者の方の都合で返却を求められたため閉館せざるをえなくなった。土曜日曜祭日の午前10時から午後3時までの限られた時間の公開だったが、年間15000人を超える来場者があり、確実に長崎の人気の観光スポットだったので、長崎市が買い取って公開してはどうかとの声も多方面から上がっていた。いまのところ長崎市はこの建物が亀山社中跡と特定できないなどの理由もあって買収にはいたっていない。学術的にみれば、その建物がそのまま当時のものでないにしろ、ここは、全国の龍馬ファンの心のよりどころの一つでもあった。長崎の幕末ファンとしてとても残念だし、全国の龍馬ファンに対して申し訳ない気持ちでいっぱい。亀山社中を守れなくてごめんなさい。
4月から、「亀山社中ば活かす会」では、亀山社中跡近くに仮設展示場を開設する予定。
3月の開館は、11日(土)12日(日)18日(土)の3日間のみとなった。
詳しくは「亀山社中ば活かす会」のホームページで。

●亀山社中跡に行くことができなかったみなさんへ、
「地球の旅」というサイトにすごくわかりやすい紹介があります。ご覧くださいな。

引っ越してきた町の市場に行く通りに小さな本屋さんがある。
昭和の終わりごろまで、町の中にこのような本屋さんがたくさんあったなあと思わせる温かみのあるたたずまいだ。
この本屋さんにも、「3月末をもって閉店します。」との張り紙があった。
たしかに、10分も歩けば駅ビルのなかにやや大きい書店がある。雑誌はコンビニで売られている。この本屋さんの存続は奇跡に近いものがあるだろう。でも風景から本屋が消えるのは悲しい。まして映画に登場した本屋さんだからなおさら…。

「いつか読書する日」という映画が昨年封切られた。田中裕子、岸辺一徳が共演した、大人の日常と秘めた思いを淡々と描いた秀作。
この中で、主人公たちが若い頃の回想シーンがある。想いあっていた二人が通う町の書店。読書が好きな二人には格好のデートの場所でもある。ある日、書店の外を通る自転車が若い二人の未来を変えてしまう…。
若い二人が落ち合う本屋のシーンは、この本屋さんで撮影された。

そういえば映画の後半で岸辺一徳が歩いていた坂道。ノウゼンカズラの花が咲いている道は、昨年母が入院している病院に通った道の一角だったが、ここも片側の斜面が新道建設のため造成されてしまった。日常から消えていくなつかしい風景…。

「いつか読書する日」は、長崎ロケが行われた映画やTVの中でも最も印象的で美しい長崎の風景を見せてくれた映画だ。
長崎ロケが印象的な映画を挙げをと言われたら「いつか読書する日」「渚のシンドバッド」「69」を挙げる。
どれも、長崎の観光名所や異国情緒や歴史的建造物は出てこない。
ある地方都市という設定なので、長崎を特定する必要がない映画だから。それでいて監督や原作者の長崎の風景への思い入れやこだわりが強く感じられる。上質の映画は、安直に観光名所をロケ地に選んだりしいないのだ。


3月末で長崎から消えていくやすらぎの風景たち。
4月からの長崎は半年間、街歩き観光イベントが大々的に繰り広げられる。
「行政が考える行って見たい風景」と「人々の情緒が求める風景」とはどうも同じものではないらしい。




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歩きに歩いた「平成天神様ウォーク」

長崎の歴史愛好家の中で密かなブーム?「天満宮二十五社巡り」、通称「平成天神様ウォーク」に参加した。
天満宮といえば、子どものころは「頭のよくなる神様だから、ちゃんとお参りしなさい。」と言われてことあるごとに連れて行かれていたお宮なのでなんとなく愛着がある。道真公は頭がよくって子どもにやさしい神様なんだと勝手に思い込んでいたところが、歴史を学ぶと彼の悲劇的な一生を知り、祟り神となったというのに少なからずショックを受けたものだ。

朝8時に「松森天満宮」集合、最後は午後4時出雲神社で終わるという丸一日天神様づくし。
よっぱりと前日のジャズライブの余韻があだして、朝タクシーを飛ばしたが、松森天満宮に行ったときにはみなさん出発したあと。
松森の梅の香りと宮司さんに送られてそそくさとつぎの諏訪神社の下に先回りして皆さんに合流。
案内してくれるのは、梅園身代わり天満宮のお世話役で丸山界隈の歴史にも詳しい料亭「青柳」の山口さんと松森天満宮の伊奈さん。
それぞれの天満宮さんに事前にアポイントもいれてくださっているので、いつもは中をみることができないところも、わざわざこのイベントのために門を明けてくださったり、「おせったい」をご用意してくださったりで、とても心のこもったものになっていた。

とにかく、坂の町長崎に散らばる天神さんを巡るのだから、それなりに心してかからなければいけない。階段を上ったり下りたり、丘を越えて、つぎの小山へ、小山から街中へ、また丘を越えてと、それなりに息を切らせながらのウォークだ。
おばさんの私よりもっとお歳が上の方々も多かったが、みなさん元気。それに、神社やお寺を巡る礼儀を知っていらっしゃる方々が多いので、参拝の礼儀なども教えていただき、有意義だ。ちゃんと分かっている方はお賽銭を準備していらした。私もさっそく、お財布のなかの小銭を全部準備、たりないときは、コンビニで弁当を買った時に…。

観光で神社やお寺を巡る時、ガイドの案内でずかずかと中に入る人も多いが、やはり神社やお寺を見せていただくときは、最初はお参りするべき。それが、そこを見せていただく者の礼儀でもある。
そんなことを体験の中から教えていただけるのも、このような集まりのよさ。
知らないでいると、他所にいったとき粗忽者のそしりをうけることになる。

巡った天神さんの名前だけあげておこう。
松森神社・松森天満宮〜新大工天満宮〜今博多天満宮〜諏訪天満宮〜樺島天満宮〜坂の上天満宮〜長崎大神宮〜桶屋町天満宮〜伊勢宮神社〜中島天満宮〜真言宗大生山賽正院威福寺跡・桜馬場天満宮〜水神神社〜松島稲荷神社〜松姫稲荷神社・笠頭稲荷神社〜古川町天満宮〜今籠町天満宮〜水口天満宮跡〜八坂神社〜愛宕神社〜八剣神社〜梅園身代わり天満宮〜本行寺〜梅香崎天満宮〜楳香崎天満宮〜出雲神社

振り返ってみても、よくまあ歩いたよ!といいたくなる。
長崎に詳しい人なら道のりをイメージしていただけると、この行程が二次元的にもかなりの距離だとわかっていただけるかな。

なにしろ天神様には「梅」がつきもの。
それぞれのところでそれぞれの種類、姿の梅を堪能できるのもいい。
土方歳三ファンにとって「梅」は特別の花だ。
「人の世のものとは見へず梅の花」 
土方が詠む梅はきっと白梅。
梅は香りを聞くものだが、土方は姿をながめるのが好きのよう。

長崎の天神さんの梅は今が盛り。
香りも色も心ゆくまで楽しめた。

山口さん、伊奈さん、それから、史談会の宮川会長さん、お世話になりました。

写真は、梅園身代わり天満宮のお守り。
身代わり天満宮は身代わりになって難を逃れさせてくれるみたい。身につけておこう。




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「長崎菜の花忌」の朗読者は男子高校生だった!
あす2月12日は、司馬遼太郎さんの命日になるが、今日「長崎菜の花忌」が行われた。
場所は、長崎港が見える風頭山にある公園の展望台。
ここには、龍馬の像と、司馬遼太郎文学碑がある。

明日まで長崎はランタンフェスティバルが開催されていることもあってか、白牡丹さんのブログや新聞記事などで紹介されていたこともあってか、龍馬の碑見学の観光客の方々など多くの方が参列してくれた。
主催は「亀山社中ば活かす会」。私も末席に連なっているので、赤白赤の海援隊旗色のはっぴを羽織らなければならないんだけど、なんとなく、しっくりこない。どうもはっぴというのが、似合わないみたい。

司馬遼太郎氏の小説で長崎が登場するのは「竜馬がゆく」、「胡蝶の夢」「韃靼疾風録」がある。が、この碑の碑文も「竜馬がゆく」だし、なんといっても、長崎では龍馬なんだね。
でも、ここは、勇気を出して「燃えよ剣」の上巻を文学碑の前に供えられた司馬さんの写真の横に置かせてもらった。

なんだか、感無量!!
幕末の長崎に土方が来ていたら…。彼独特の考え方で西洋を理解しただろうなあ。

今年の朗読は、すばらしかった。
県立長崎西高校3年生の古川雄太くんが「竜馬がゆく」の怒涛編から希望の章を読んでくれた。竜馬が船で長崎に入ってくるシーン。
古川君は、長崎西高校の放送部の前部長。
第26回九州高校放送コンテスト鹿児島大会朗読部門で優勝した実績の持ち主。
若者の声は「竜馬がゆく」にぴったりだった。

参列者全員が碑に菜の花を献花して会は終わった。
会員以外の献花者が30人くらい。
碑の前にはまだ花の少ない菜の花がいっぱい。そこだけ春が来たみたい。

閉会後、朗読した古川君と話をした。
彼、なんと、鹿児島大会では「新選組血風録」を読んで優勝したそうだ。
朗読課題作品の中に「新選組血風録」があって、それが一番自分をわくわくさせてくれたので朗読作品に選んだそうな。

またまた感激!

古川君、卒業したら上京し、さらにアナウンスや朗読の技術に磨きをかけるらしい。
もしかすると、ある日声優さんになっているかも??
そのときは、ぜひ「新選組血風録」を聞かせてもらいたいなあ。

今年の菜の花忌も、とてもいい縁をいただいたみたい。


昼から亀山社中跡に立ち寄ってみたら満員!ひっきりなしに見学者が来てくれて、玄関は靴で溢れていた。
発売したばかりの龍馬の携帯ストラップはすでに売り切れで再発注しているとか。残念だがきょうは龍馬の根付のほうを買った。400円なり。
これを携帯につけたら、竜馬と歳三が仲良く?ぶつかり合うことになる。
「月明星稀」みたいだなあ。




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伊東カッシー、長崎でなにしてた?

白牡丹さんの幕末クリップ記事のなかに、かの有名(??一部ではかなり)なフルベッキ師弟の写真のことがクリップされていた。
記事にかかれているように、この写真は撮影者上野彦馬関係の記録で、フルベッキとその教え子たちの記念写真で、明治2年、フルベッキが東京に移るとき「致遠館」の教え子たちと一緒に撮影したもの。ということは、物理的にも幕末の志士たちの写真ではないわけ。

フルベッキという名前を久しぶりに聞いた。
と、同時に、フルベッキがらみで、新選組ファンの私にも興味深い話を、過去に聞いたことを思い出した。
ちょうど、「落花は枝に還らず」を読んで、秋月悌次郎が長崎にきていたんだって!と、おどろいていたころ、「新選組の伊東甲子太郎も長崎にきたよ。」という話を聞いたことを思い出した。

伊東カッシーが新選組に入るため京都に着いたのは元治元年12月はじめ。この日から、土方君の頭を悩まし続ける存在になるわけ。
翌年2月23日に山南さんの切腹。その翌年慶応2年の1月末から3月下旬まで伊東カッシーは、近藤さんについて広島に出向き、近藤さんより15日も遅くかえってきている。その間に土方君は勘定方河合耆三郎くんを切腹させている。
カッシー、その翌年正月早々永倉君や斉藤君をさそって島原で遊んで、隊規を破って居続け事件。それも謹慎程度の処罰ですんだら、1月18日には、お仲間新井忠雄くんといっしょに九州遊説の旅に出ている。なんとも自由勝手な素行だこと。
遊説の旅、永井さまと途中まで一緒して、幕府御用船に便乗して、大分に渡り、徒歩で九州横断し、大宰府で、真木外記なんかに会って「新撰組とは分かれるつもりよ!」と話したり、福岡で中岡慎太郎と会ったという記録もあるようだ。この間に和歌もたくさん詠んでいる。
で、2月20日ころから長崎をめざして、長崎街道を西に!

ついに、2月25日長崎に到着したようだ。
その日から3月4日まで、他所の地では1泊しかしていないのに、長崎には1週間以上も居続け!

英語好きのカッシーは、当時長崎にいたフルベッキを尋ねたりしたのではないかなあ。このころ、フルベッキは、大隈重信が五島町の諫早屋敷を借りて開いていた英語塾「致遠館」と長崎奉行所の洋学所をかけもちで教えていたらしいので、コンタクトは取りやすかったはず。このとき学んだことが、新政府基本政策の建白書の中に活かされているのではないかとも言われている。

同じ頃、会津の山本覚馬が武器調達の使命を帯びて長崎に来ていたので、当然カッシーはアポイントを取ったでしょうね。
覚馬はこのとき、銃だけでなく、弾の製造機なども発注しているわけで、この時の借金が払われていないため、中にはいっていた長崎の豪商足立仁十郎がドイツの武器商人から訴えられることになる…この話はまた他の時に書きます)

おしゃれな都会人を気取ったはずの伊東カッシーは丸山で遊んだだろうか?
遊んでいたらそのときの遊女にカッシーってどんな男だったのか聞きたい。
案外、純で遊びには晩生の人だったのではないだろうか。

土方ファンにとっては鼻持ちならない伊東甲子太郎だが、小説「地虫鳴く」(木内昇著)を読んでから、少し彼の生い立ちや人となりに興味が沸いてきている。
いっそ、ずーっと長崎に居続ければよかったのに…。

「伊東甲子太郎」も長崎に来ていたなんて!
当時の長崎はいったいどんな世界だったのだろう。
地元にいて、その雰囲気がつかめないでいる。おおよそ並外れたテーマパークのような場所だったのだろうね。




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永井様の独断が作ったものー「新秋の浦夜話」を読みながら

「新秋の浦夜話」という新書版の古本を持っている。
これは昭和39年発行で編者は三菱造船株式会社長崎造船所(今の三菱重工業株式会社長崎造船所)
で、菱造新書ー1という通番と値段が書いてないところを見ると、三菱の私家版だったのだろう。
内容は、三菱長崎造船所の歴史のなかから、特徴的な出来事をこぼれ話のように紹介しているもので、一般的には知られていないような話もでてきて、軽く読めるが興味のつきない本だ。

このブログの前回の記事に永井尚志のことを書いたら、数人の方からとても興味深いコメントをいただいた。おゆきさんのコメントで永井尚志は三島由紀夫のひいおじいさんにあたるということも知った。みなさんそれぞれの捉え方で永井尚志に好意をもっていることが感じられた。

で、永井尚志についてもう少しエピソードをさぐってみたいと考えていたところ、記憶の中で長崎海軍伝習所諸取締の永井玄蕃頭尚志は『長崎鎔鉄所』の言いだしっぺでもあるという部分が引っかかってきた。そこで、「新秋の浦夜話」を引っ張り出してきたわけだ。

この最初のページに編集当時(昭和36年)の所長さん喜多喜久一氏による「はしがき」がある。少し引用させていだだこう。

三菱長崎造船所組立工場の外側に『長崎鎔鉄所の跡』という標識が立ち、その前庭に古めかしい工作機械が大切に置かれています。…中略…今から百年あまり前、長崎鎔鉄所の片すみで、日本にはじめて種まかれた近代工業として最初の一片を削り出したのが、この簡単な工作機械だったのです。後略…
この日本最初の工作機械は今でも三菱重工(株)長崎造船所の資料館に保存されている。
この工作機械が日本に入ってきたいきさつに永井尚志は大きく関わっているのだ。
安政2年長崎海軍伝習所の諸取締(というのは監督かプロジェクトリーダーのようなものだろうか)の永井さまは「海軍を作ったら、造船所や製鉄所や修理工場もいるよなあ」と思って、長崎奉行に話をしたらしい。長崎奉行は幕府にお伺いを立てて許可が下りたら進めよう」と言ったのだろう。お伺いを立ててもすぐに返事がこないので、頭脳明晰で穏やかな人柄だったと言われている永井さまだが、「なら仕方がない職権で進めよう!」と、鎔鉄炉用蒸気機関や機械器具をオランダに発注している。(「海軍を興せば、即ち造船所を設けざるを得ず、是により在崎の日、長崎奉行とこれを談じて協せず、この故に職権専断、蘭師に託し造船製鉄の器械を蘭国より購ず」=永井玄蕃頭尚志手記)
永井さまが独断専行したのは、製鉄所建設を委託するオランダ海軍中佐ファビウスが帰国する日にちが迫っていたからで、間に合わないと建設が先延ばしになることを恐れたかららしい。
(さすが、頭脳明晰で穏やかな人柄!)
先に書いた、三菱長崎造船所資料館にある日本最初の工作機械は、このときに発注されたものの一つだ。

鎔鉄所の建設工事は、安政4年(1857)から始まる。オランダの海軍士官ハルデスが総指揮をとり、4年半後の文久元年(1861)3月に落成した。しかし、安政4年3月に築地海軍操練所が開講したため、永井さまは築地に移動することになり、鎔鉄所の完成に立ちあえていない。
この日本初の洋式工場である長崎鎔鉄所(のちに長崎製鉄所と改称)が、現在の三菱重工株式会社長崎造船所の起源になっている。
三菱長崎の資料館HPにも永井さまの名前が出ている。永井玄蕃頭尚志の建議に端を発し…と書かれているのがなぜかうれしい。


三菱長崎造船所といえば、一民間造船所の技術で戦艦「武蔵」を造ったところであり、今では最新鋭イージス艦や地球深部探査船「ちきゅう」を建造している世界的にも名だたる造船所。この発端におだやかな人柄だといわれていた永井さまの苦汁の独断があるというのがなんともうれしい。

我が家がある風頭山から三菱長崎造船所が見える。眺めるたびに「新選組!!」で永井尚志に扮した佐藤B作さんの顔が浮かんでくるようになりそうだ。




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良順の行動力と土方の言葉が心に沁みる「暁の旅人」

暁の旅人」 吉村 昭  講談社

日本の近代医学の功労者ともいえる松本良順の伝記小説。
松本良順が主人公の歴史小説といえば司馬遼太郎の「胡蝶の夢」が有名だが、この「暁の旅人」もより伝記に近い小説として心に残る。

私のような新選組ファンには、近藤や沖田の傷病を治療し、西本願寺屯所の衛生指導をし、山崎に応急処置の手ほどきをし、沖田をかくまい、旧幕軍とともに会津、仙台と転戦するなど、最後まで幕府に準じようとした奥医者として、愛着を持って知られている人だが、その生涯は、実直なまでに医療の先陣にたって粉骨砕身する一生だった。

シーボルトの来日以来、優秀な蘭方医もでてきたが、あくまでも学問としての西洋医学であって、医療の技術は普及していなかった。松本良順は、長崎でオランダの軍医ポンペの指導を受け、実証的な近代医学を身につけた最初の日本人医師だ。
ポンペに協力して日本初のヨーロッパ式の病院と医学校である「小島養生所」の設立に尽力し、設立後もポンペの助手として医学生の教育や市民の傷病治療にあたっている。記録では、ポンペが在任の5年間に教育した医学伝習生の数は133人、診療した患者は、14,530人にものぼっているが、この数字も実践的医学を学ぶために幕府やポンペを説得し尽力した良順がいなければゼロに近かっただろう。
この医学伝習所が長崎大学医学部と付属病院の前身で、ポンペが最初に講義を行った11月12日は、現在でも長崎大学医学部の創立記念日になっている。

江戸に帰ってからの良順は、将軍家茂の主治医になり、その臨終を看取り、幕府の海陸軍軍医制を編成して総取締になり、幕府崩壊後は、旧幕軍といっしょに会津にいり、野戦病院を開き会津の医師たちを指導して多くの傷病者の治療にあたっている。松平容保公は、決戦にあたって、良順に会津を離れるように諭す。良順を惜しんでのことである。
仙台で、榎本武揚に蝦夷行きを奨められて逡巡する良順のもとに、土方歳三がたずねてきて江戸に戻ることを奨める。土方の言葉で江戸に帰ることを決心したのだから、土方は、日本の近代医学の影の功労者だろう。

土方が説得したことは、良順の自伝にも書かれているので史実である。
胡蝶の夢を読んでいた昔、土方の説得の言葉に、良順への敬意と死を覚悟している武人の虚無を感じていたが、今回、暁の旅人のこのシーンを読んで土方の言葉に少し違った意味を感じた。良順への敬意とその技術を惜しんで蝦夷行きを引き止めたのだが、同時に、彼にはもっと具体的なものがみえていたのではないか。

ポンペは「医師にとって、身分の差も貧富の差も意味がない、ただ病人があるだけだ」といって貧しい人は無料で治療し、町人も武家も平等に治療していた。その精神は良順にも受け継がれている。新選組時代から良順のアドバイスを受けていた土方は、ポンペの教えを聞いていたのかもしれない。もしくは、良順の生き方にポンペの精神を見出していたのかもしれない。土方は、そんなに遠くない未来に戦が終わることを感じていただろう。ふるさと多摩の人々の安らかな暮らしが続いて欲しい。そのためには新しい政府には良順のような平等と博愛の精神をもって欲しいと思っていたのかもしれない。武家の出でないからこそ、よけいに平等と博愛の意味の重さがわかるのではないだろうか。

江戸に帰り、投獄されたのちも、絶え間なく医学、医療に尽くしている。
松本良順ほど、一般市民のために献身的に尽力した人はいないのではないか。それでいて、人のために活動したという押し付けがましさが皆無の人も珍しい。
近代医療に尽力した一人の男の真っ直ぐな行動力を感じ、その尽力に敬服してしまう一冊だ。




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青函連絡船「大雪丸」が2度目の人生を終えた

昭和63年、北海道と本州を繋ぐ青函トンネルの開通によって、その役割を終えた青函連絡船。そのうちの1隻、2代目「大雪丸」は、10年位前から、長崎港に係留され、ホテルシップ「ビクトリア」として、営業していたが、20日にホテルシップとしての営業を終了した。
遠く長崎まで来て「大雪丸」の案内や解説を引き受けていた元船長も北山さんも、函館に帰られることになった。「大雪丸」はまだまだ働けそうだが、係留している岸壁の海底の様子が悪く、浚渫して営業するには費用がかかりすぎるので、営業停止に踏み切ったらしい。残念だ。「大雪丸」の今後はまだ決まっていないらしい。外観だって、まだまだ活躍しそうな船だ。できれば長崎に係留していたいが、どこか引き取り先があるのだろうか。十和田丸のように、東南アジアに引き取られる可能性もあるが、廃船だけは、避けて欲しい。

しぶとく生きた船としえば、箱舘戦争時に、蝦夷地共和国軍の艦船のなかで最後まで戦い続けた「蟠龍」のことが忘れられない。
箱舘戦争決戦の5月11日、「蟠龍」は、新政府軍の「ストーンウォール」(甲鉄艦)と激しく交戦した。弾や弾薬が底を衝いたら弁天台場近くの海岸に座礁させ、浮き砲台にすることを考えていたらしいが、午後になると船隊に放火され、全焼をまぬがれたが、航行不能となっていた。戦後、英国商人が大幅に改造して北海道開拓使に売り「雷電」と改名。明治政府はこの船を軍艦として横須賀に配備し、その後廃船した。廃船後もスクラップにならず、土佐の捕鯨船になったり、商船になったりして、明治30年に解体されたようだ。
箱舘戦争と言うと、「開陽丸」が有名だけど、私は、「回天丸」やしぶとい「蟠龍丸」が好きだ。ちなみに「蟠龍」の艦長は松岡磐吉。長崎海軍伝習所2期生、咸臨丸で渡米している。降伏後、東京の辰の口牢獄に送られてそこで病死した。

月曜日、歴史文化協会の集まりで北山船長さんから、萩原幹生氏の切り絵画集「青函連絡船切り絵集」をいただいた。画集のなかにある、駒ヶ岳を背景に進む青函連絡船の冬景色の絵が印象的。萩原幹生氏もかつて青函連絡船の船長さんだった人。

「大雪丸」できることなら、またふるさと・函館の港で、余生を送ることができるといいのに…。




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再現・龍馬のブーツは37000円!

久しぶりに長崎龍馬会事務局長の金子さんに会った。
彼の会社が開発販売している「龍馬が愛した珈琲」は長崎からの手土産に最適で、よく利用している。今回も注文したら気安く届けてくれた。
龍馬の愛した珈琲を飲みながら、情報交換。興味深い龍馬情報を2つほど。

ひとつは、11月中に福島県にも龍馬会が発足するとのこと。これで、日本中で龍馬ファンの会がない都道府県は皆無になる。龍馬は全国制覇。さすが龍馬。人気はダントツだと思い知らされる。

もう1つの情報は、龍馬のブーツにまつわる話。
龍馬がブーツを履いている写真は2種類ある。桂浜の龍馬像の元になった有名な立ち姿の写真と三吉治敬氏蔵の椅子に座った写真。2つの写真のブーツは違うものだと彼は言う。

立った写真のブーツはつま先がそりかえっていてサイズが合っていないのは一目瞭然。
金子氏の話ではこのブーツは高杉晋作にもらったものらしい。高杉は当時海峡を通行する外国船を襲撃していたので、その戦利品の中古のブーツを龍馬にあげたのだろうという。合理的な龍馬はわらじより丈夫で歩きやすい靴を愛用することになったのだろう。

座った写真のブーツは、つま先も上がらす、足にフィットしているし、立った写真より靴が新しい。当時、龍馬は長崎でグラバーのもとをたびたび訪問していた。グラバー邸がある長崎の居留地には、トンプソン靴店という靴職人をかかえた靴屋が1軒あったそうだ。龍馬は新しい靴をグラバーにプレゼントされたのではないかと金子氏はいう。
当時のトンプソン靴店の靴のカタログのようなものが残っているそうだが、そこに、座った龍馬がはいているものに似た靴が1種類あるそうだ。
金子氏たちは、その靴が龍馬がはいている靴と同じデザインと断定し、龍馬のブーツとして商品化にふみきった。
最初は、長崎市内で老舗靴店の靴職人さんにお願いして受注生産していたが、それでは間に合わないので、今では「リーガル社」と契約して量産できる体制で商品化している。

龍馬と同じ形の再現ブーツの価格は税込み37000円也。すでに30足くらい注文がはいっているとか。
形は足首までの短いサイドゴアのブーツ。色は濃い茶色。皮がやわらかく履き心地のよさそうな靴になっている。

そういえば、幕末の印象的な靴の写真は、坂本龍馬と土方歳三だろう。
龍馬の靴を再現すると一足37000円になるなら、土方のロングブーツはいくらかな?
ちなみに、龍馬のブーツ、金子くんが注文受け付けてくれるとの事。

<追記>
金子くんの龍馬のブーツについての記事と注文方法のページ
土方ファンの「ウエストコースト日日抄」が龍馬のPRをするのも変だけど、歴史を掘り起こす楽しさを知っている者同士の思い入れかな。




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討幕派小藩の幕末維新のできごとを追う

もう一つの維新史ー長崎・大村藩の場合ー
外山幹夫著  
新潮選書

半月ほど前、新聞のローカル版に「大村騒動」を記録した史料「慶応三年丁卯日記」というものが見つかったとの記事が掲載されていた。
この日記は大村史談会の会員の人が佐賀県内の古書店でみつけたものらしい。「大村騒動」というのは、慶応3年、「勤皇三十七士同盟」の要人藩士を佐幕派藩士たちが襲撃した事件で、関わった多くの佐幕派藩士や親戚縁者まで捕らえられ、斬首、獄門,遠島などに処せられた事件のこと。
今回の発見で、首謀者とされる藩士たちが、当時の刑罰をさだめた「公事方御定書」の規定を上回る厳しい処分を受けていることや歴代将軍の命日に斬首をしているなどが分かったらしい。
この記事で、身近な大村藩でさえ、藩内で勤皇佐幕に分かれて壮絶な戦いがくりひろげられていたことを知り、地元長崎や周辺の幕末維新の事情に大いに興味をおぼえた。

「もう一つの維新史ー長崎・大村藩の場合ー」は、天領の長崎に近い西の端の小藩、大村藩の幕末維新の内部史。大村藩は、藩主が早い時期から勤皇思想に目覚めた開明的な藩だったので、藩士にも勤皇家が多く育ったところだったらしい。

新選組ファンならおなじみの渡辺昇もこの藩の藩士で、「大村騒動」の壮絶な収束方法に大きく関わっている。
試衛館は、他流試合申込者や道場破りが来た時、時々ご近所の錬兵館に応援を求めていたなどというエピソードが残っているが、このとき応援に駆けつけていた一人が渡辺昇で、そのような因縁もあって渡辺はしばしば試衛館をおとずれては、近藤と飲み、世相を語り合っていたそうだ。彼は近藤の親しい友人の一人だったらしい。
2人の友情は、倒幕、佐幕と立場が違っても続いていたらしく、慶応3年、渡辺が京都で倒幕運動に加わっていた時も、近藤は渡辺捕縛には消極的な態度を示し、土方をやきもきさせたらしい。会津藩から渡辺抹殺の許可がでると、近藤は、表立って反対はしないまでも、土方たちが踏み込んだ間一髪で渡辺が逃げおおせたという報告を聞くと「逃げていてくれてほっとしたよ」と思ったと、のちに語っている。渡辺も近藤のことは、生涯、悪く思っていなかったようだ。


早くから勤皇方であった大村藩は新精隊16名を慶応3年6月に薩摩藩兵名目で上洛させ徐々にその数を増やしている。鳥羽伏見の戦いでは、大津に出兵し、幕府軍の攻撃に備えている。その後大村藩軍は、東海道鎮撫総督指揮下の先鋒として桑名、鎌倉をへて江戸城にはいり、木更津方面の鎮撫や彰義隊との戦いにも参戦。さらに、江戸から海路平潟に上陸して、平・三春を射ち、二本松に入り、会津攻撃では若松城攻撃の先鋒となって十六橋から城下に入っている。また、奥羽列藩の中で唯一勤皇派を支持したため、苦境に立っていた秋田藩の応援にも出向いている。

旧幕軍の側に思い入れして史料や小説や映像を見ていたときには、ただの敵側のとんがり帽子とだんぶくろ集団にしかみえない新政府軍の先鋒にたびたび大村藩士がいたことになる。複雑な気持ちではあるが、両側の顔が見えると、より客観的な立場で事を眺めることができるという強みもでてくる。

大村藩という小藩の幕末維新の壮絶な歴史だが、、大なり小なり同じ事が各地で起こっていたことだろう。大村藩の内面史は、日本近代化のヒナ型の一つでもあるという安岡章太郎氏の解説文に納得させられる。



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製作・著作:平野惠子
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