歴史コラム・長崎の幕末・明治

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修羅場をくぐった3人のサムライたちの復活の場・長崎

幕末、戊辰戦争の修羅場をくぐってきた3人の男たちが明治中期の長崎の歴史の中に名を残している。

先日、島原半島の歴史研究愛好会の勉強会でお話しをする機会を頂いた。
テーマは、長崎に関連し、歴史的な切り口のあるものならお任せということだったので、この3人の男たちについて紹介させてもらうことにした。

この3人の男たちへの興味は、以前にも※このサイトのコラムで書いたが、今回の原稿作りの中で改めて彼らの経歴を眺めると3人が同じ時期に長崎にいたことがわかる。そして、彼らの長崎でのキャリアから考えて、絶対に3人同席の機会があったと推測できる。

この3人とは

●8代目長崎県令(県知事) 日下義雄
●初代長崎市長 北原雅長
●三菱経営になってから初代長崎造船所長 山脇正勝

日下と北原は、会津藩士、山脇は桑名藩士。
会津と桑名の藩主は実の兄弟で、どちらも幕府に忠義を立て、幕府軍として戊辰戦争を戦っている。会津は落城まで徹底抗戦し、桑名藩主は、国元が恭順したので藩主とその側近は会津、仙台、箱館と転戦していく。

日下義雄は、飯盛山で自刃した白虎隊隊士石田和助の実兄。当時は石田伍助という名で、白虎隊に属していたが、別の分隊だった。
会津降伏後、箱館まで転戦し、箱館戦争終結時捕虜となって東京に送られる。1年後赦免され、井上馨の助力もあって、岩倉使節団の一員として2年間欧州・アメリカを回って学問を積んでくる。帰国後、当時の大蔵省に入省した。、
明治19年、第8代長崎県令として長崎に。
海外先進国を見てきた日下は、日本の衛生面の遅れを問題視して、長崎でも、画期的な施策を実行している。土葬を禁止し、検疫所や伝染病病院の前身になる施設を作り、チェコの保養地にならった行楽地を作り、製氷会社を起こし、日本で3番目の水道工事まで着工させる。この水道は、日本で最初のダム式貯水池を持った近代水道で、このとき建設された本河内高部水源地のダムはつい最近まで昔のまま活用されていた。ただ、この水道工事には膨大な費用が掛かるため、市民の猛烈な反対にあい、それでも押し通したため明治22年、知事罷免になってしまう。
長崎を離れた日下は、その後、福島県知事として会津に帰り、鉄道会社を興したり、国会議員を務めたりしている。


北原雅長は、会津藩家老神保内蔵助の次男で母方の北原の姓を継いだ。兄は、戊辰戦争勃発の責任をとって切腹した家老神保修理。
会津戦争中は、大鳥圭介たちと母なり峠で戦い、篭城。この戦さで、父神保内蔵助が自刃、兄嫁神保雪自刃。落城後、家老萱野権兵衛の自刃に立ちあった。その後工部省に入る。このとき、工部省には大鳥圭介がいた。のち、官吏として長崎で働いていたが、明治22年の市町村制施行に当って、県知事日下義雄によって、初代長崎市長に任命される。
日下の水道工事を引き継ぐ形となり、明治24年水道工事を完成させ、明治28年、長崎を離れる。
その後、東京下谷区長などを務める。その傍ら、京都守護職時代の会津藩の動向や、孝明天皇から拝領した御宸翰(ごしんかん=天皇直筆の文書)と御製の存在を明かした「七年史」を書き、会津藩の復権に尽くした。


山脇正勝は、山脇隼太郎といい、桑名藩士の子息で、藩主松平定敬の小姓の一人。
戊辰戦争で藩が恭順に傾くと、藩主と父親の命令で、恭順派の家老を暗殺する。藩主を追って会津などを転戦し、箱館戦争直前に箱館に渡るが、藩主定敬はすでに箱館を離れていたので、土方歳三率いる箱館新選組に入って、弁天台場を戦場に戦い、降伏。
新選組隊士名簿にある「大河内太郎」は、山脇正勝のことだ。赦免後は、多芸谷太郎太と名乗って、岩倉使節団とともにアメリカに渡っている。名前を変えたのもアメリカ行きも、暗殺者として国元に帰れない事情があったのかもしれない。アメリカ出発前の山脇の写真があるが、左手小指が欠けている。会津に向かって転戦中、大面村の戦いで小指を欠いたという。激戦に明け暮れた経歴を物語るにあまりある。
アメリカで岩崎弥之助と知り合い、帰国後の明治8年郵便汽船三菱会社に入社して翻訳などを担当、明治10年には上海支社長、明治14年、三菱が買い取った高島炭鉱の所長になる。
当時の炭鉱は囚人たちを工夫として働かせるなど、殺伐とした世界だったが、山脇の豪快な正確は工夫たちからも慕われていたようだ。山脇が所長の時代、画期的な出炭量を上げている。
明治17年官営だった長崎造船所を三菱が貸与されたのを機に、山脇は初代長崎造船所所長になる。その後明治30年まで、山脇は長崎造船所長を務めて、重役となって本社に戻っている。本社に戻って程なくして40歳半ばで山脇は三菱を退職し、第一線から退く。
山脇の口癖は「商売は相手と利益山分け」で、一人勝ちを嫌い、長崎造船所では私利私欲のない古武士のような風格の所長として人望を集めていたという。

この山脇は、造船所の工員たちに向かって「酒は大いに飲んでも良いぞ、しかし、仕事は手を抜くな頑張れよ」と言っていたそうだ。
工員たちに囲まれながらこの言葉を言う山脇の姿は、まるで二股口の塹壕で酒を配りながら兵士をねぎらう土方歳三と重なってみえる。
山脇が箱館新選組に入隊した日にちは、土方が二股口から撤退してきたころになる。山脇は二股口には参戦していないが、参戦した兵士たちから、そのときの様子を聞いていたはずだ。
修羅場をくぐってきた土方は兵士の心を掴み、士気を高めさせるつぼを心得ていたし、自分が率先して、戦の先頭に立つ勇気を持っていたので、兵士たちから慕われていた。
同じように人生の修羅場を経験した山脇もいつのまにか土方のようなリーダーになっていたのだろう。

戊辰戦争の渦中で、まさに修羅場を経験した3人の戦士たちが、同時に長崎にいたのは、日下が長崎を離れる明治22年年末までの4年くらいと思われる。
この間に、三菱長崎造船所では、この造船所では最初の鉄製船である貨客船「夕顔丸」が竣工している。
竣工時には、長崎の知名士たちを招いての祝賀会もあったことだろう。
知事である日下義雄、市長の北原雅長も招待されたはずだ。
日下も箱館戦争を戦っているので、山脇とは接点がないわけではない。
北原と日下は同郷ということもあるが、日下は母成峠の戦いで、北原は維新後の工部省で大鳥圭介と一緒になっている。大鳥は築城術などに秀でていたので、案外ダム建設など興味があったかもしれない。その影響は北原にも及んでいるとすれば、日下が北原を市長に選んだのは、同郷であるというよりは、自分が推進している事業を理解しやすいし、中央へのパイプがあるという理由が大きかったのでは。)
また、山脇と北原は、長崎造船所が三菱に借り上げられる以前は工部省管轄だったことを考えると、北原の市長就任前の長崎での仕事は、長崎造船所に絡んだものがあったかもしれないので、接点があったと見てもはずれではないだろう。
この3人が一同に介したとき、どのような話をしたのだろうか。
興味は広がる。


日下、山脇の当時の写真は見ることができた。
いま、北原雅長の写真を探している。

※1 旧会津藩士・日下義雄が長崎に残してくれたもの 2005-10-01
   ・ 土方たちと一緒に箱舘戦争を戦った長崎県知事がいた! 2005-09-29
   ・ 初代長崎市長は旧会津藩士だった。 2005-09-26
   ・三菱長崎造船所初代所長は新選組隊士だった! 2006-04-28


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「コルセット」が命取りになった美人の話

「長崎女人伝」(深潟久著)と言う本がある。もう25年以上も前に出版された本。
大先輩からの依頼の調べ物で、久しぶりにこの本を手にした。
つらつら読みふけっていた中で、とても興味深い話に出会った。

その1つは、西南戦争が勃発したころ、身体を張って薩摩男をかくまった「おむら」という芸妓の話の中で、足立仁十郎の「田辺屋」の場所が、具体的に書かれていたこと。(以前地図と長崎談叢でそれを知ったが、ほかの人の書き物の中では初めて出会った)

そのころの長崎署はいまの浜屋百貨店のところにあった。田辺屋という貿易商の後で、田辺屋の一番蔵の二階が特別取調室兼留置場になっていた。
と書かれていた。

もう1つは、コルセットを締めすぎたうえ、多くの殿方にダンスの申し込みをされて、その場に倒れて亡くなった美人の話。

コルセットといえば、昔の映画「風とともに去りぬ」を見た人なら、スカーレットが召使に命令してコルセットをぎゅーっと締めさせるシーンを思い出すはず。美しさのためなら苦しさだってなんのその!という心意気も勝気なスカーレットなら、ありそうだが、日本でもあの鹿鳴館風ドレスを着るために、コルセットの苦行に耐えていたんですね。

この不幸な女性は、28歳になる、県令(県知事)さんの美人妻。

明治19年12月、当時、長崎にあった交親館というところで、各国の領事夫妻たちが集まって舞踏会が開かれた。
お茶やお琴が得意で、明治の要人・井上馨邸で、行儀作法にも磨きをかけた賢夫人としても取りざたされていた県令夫人は、この舞踏会でも人気者。
新調のドレスのコルセットをきつく締めすぎたうえ、多くの殿方からダンスの申し込みを受けて大変疲れていた。そこに、余興の山伏踊りが登場。山伏といえばホラ貝はつき物。ところが、県令夫人はこのホラ貝の音が大きらいだったとかで、その場で卒倒して意識不明に陥った。
「高熱にうなされ、島原の温泉獄に飛脚を走らせて囲い氷を取りにいかせたが、間に合わず息を引き取った」と、県令が後に友人に話している。
島原の温泉嶽とは、雲仙・普賢岳の「鳩穴」のことかしら?当時はまだ氷は天然のものしかなかったんだね。
この県令さんは、愛妻の不幸な死に遭遇して、西洋のように製氷ができない日本の文明の低さを痛感し、長崎に製氷事業を持ち込み、稲佐製氷会社を設立した。
そのほかにも、衛生面を考えて、土葬を禁止し、火葬場を定めたり、検疫所や避病院を設置したり、下水道を整備したり、築港計画をしたり、桜の並木をつくり、カルルスという花見の場所を作ったり、エネルギッシュな事業を行っている。
彼の事業で今でも長崎市民が恩恵あずかっているものがある。
それは、水道の創設。

以前からこのブログを訪問してくださっている幕末史ファンの皆さんは、あら?と記憶をたどられたんじゃないでしょうか。そうです、この県令さんは、8代目長崎県令。会津出身の日下義雄。
そして、不幸にも亡くなった県令夫人は、日下義雄が米国留学から帰国後、東京で下宿した元幕府御用達の菓子司の山内家の四女可明子(かめこ)。

明治8年に二人は婚約し、明治9年から4年間、日下義雄は井上馨に随行して欧州に滞在。その間、可明子は静女塾に通って義雄の帰りを待ち、明治13年、帰国した義雄とやっと新婚生活。明治19年2月に義雄が県令中最少年齢(36歳)で、長崎県令に就任し、遅れて5月に可明子も長崎に来た。そして、その年の12月の舞踏会で急死したのだ。

可明子の死に製氷会社の設立まで決心した義雄だけど、翌年(明治20年)の秋、水野明子という女性と再婚しているんだわ!
先妻の死から1年もたっていないのに〜〜〜〜!!

その後も、日下義雄は、さまざまな業績を残している。仕事人間の典型だったと思えばいいのかな。
そんな義雄と再婚した水野明子という女性は幸せな結婚生活を送ることができたのかな?
ちょっと、気になるなあ。


●現代女性としての教訓!
「おしゃれのために身体をいじめると、えらいことになるぞ!」
いや 「男のためにおしゃれすると、えらいことになるぞ!」 
のほうがいいかな。

 


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やっとできた、西南戦争、台湾出兵戦没者(長崎埋葬)データベース完成!

地元の人々にもあまり知られていないが、長崎にも西南戦争による戦没者の墓地がある。
「佐古招魂社」と呼んでいるが、正式にはどうも「佐古梅ヶ崎招魂社、官修佐古梅ヶ崎墳墓」というようだ。西南戦争や、その2年前の台湾出兵の政府軍戦没者を埋葬し、お祭りしている場所で、私感だが、靖国神社のような性格のものではないかと思っている。
この場所を知ったのは、もう10年以上前だったが、戊辰戦争時、長崎から奥羽地方に討伐に向かった「振遠隊」の供養碑があると聞いて訪れたのが最初だった。ここは一般に開放されていないので、鍵をお借りして中にはいるのだが、草の生い茂った中に、おびただしい数の小さな墓石が並んでいるのに圧倒された。墓石を見ていくと、その出身地は日本各地の及んでいる。すでに100年以上前の墓標のため、こわれたり、表面が剥離した物も多く、とても寂しげに見えて、心を打った。
後日、それらの墓標は、明治7年の「台湾征伐」と明治10年の「西南戦争」に出兵し戦死や病死した日本陸軍、海軍の兵士たちのお墓ということがわかった。

なぜ、そんなお墓が長崎にあるのか、不思議に思ったが、この2つの戦争の重要な軍事拠点が長崎に置かれ、そこから船で戦場に兵士を送り出していたようだ。台湾征伐のときは、大隈重信、谷千城、西郷従道以下、将兵4500人以上が長崎港から出兵していったらしい。
西南戦争時も、長崎は指令本部のようなものがおかれていて、別働第3,4旅団は長崎を拠点に鹿児島や熊本にむかった。警視庁の川路大警視率いる旅団でもあり、会津の山川浩もその旅団にいたのではなかったか。
長崎が拠点に選ばれた大きな理由の1つには、西洋医学校と最先端西洋医学の病院があったということもがあげられる。多くの負傷者を出すことが予測される出兵であるため、近代的な外科手術や手当てができる医者が一番たくさんいて、設備も充実している長崎西洋医学校を軍病院にしたのだ。佐古招魂社はこの長崎西洋医学校のすぐ上の山になる。この西洋医学校こそあの松本良順とオランダ人軍医ポンペの尽力でできた小島養生所を前身にしている施設なのだ。
台湾討伐や西南戦争で負傷したり病気になった人の一部は長崎の病院に収容され手当てを受けた。長崎の病院で傷病死した兵士たちが祭られたのが佐古梅ヶ崎招魂社だ。

ここに葬られている人たちの名簿がないものかと探していたが、今年の春のお彼岸に執り行われた招魂祭の時お会いした長崎郷友会のS氏から「明治百年記念事業 官祭佐古梅ヶ崎招魂社・官修佐古梅ヶ崎墳墓遠隔概要」という資料をいただいた。
この資料の中に、佐古の墓地に眠る人々の名前や出身地が記されていた。
「インターネットを駆使できるのであれば、違った形で佐古招魂社のことを伝えることができると思うので、そのために活用してほしい」との言葉も一緒にいただいたので、責任重大。なんとか、埋葬されている人々と子孫や関係者をつなぐものにできないかと考えたが、まずは、記載されている1100人の人々の一覧をつくり、出身地や名前の一部でも検索できるようにしてみた。
7月には完成の予定だったが、この日までかかってしまった。

データベースはここ長崎の歴史を紐解くWEBサイト・「長崎微熱」内において、そこに検索用ページをつくってみた。

自分のルーツ探しの人々に、役立つ情報になってくれれば…。と思っている。

 


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お盆16日は「飴屋のゆうれい」と「地獄絵」に会える日だった。
日本各地にある「赤子塚伝説」だが、長崎にもある。
長崎では、「飴屋のゆうれい」という通称で呼ばれている民話がそれ。

長崎市伊良林1丁目にある浄土真宗本願寺派のお寺「光源寺」が、その民話のお寺になっている。
「光源寺」には「産女(うぐめ=長崎では「うぶめ」ではなく「うぐめ」と言っていたらしい)の幽霊像」があり、毎年8月16日にご開帳となる。

お寺の本堂で、子どもたちと一緒に、紙芝居仕立てになった民話を聞いてから、幽霊像が祭られている部屋に通される。その部屋は戸を閉ざし、暗さを演出してある。ろうそくの明かりの中で初めて対面した幽霊像。木彫に黒髪のかもじがつけられ、裾に行くにつれ細くなった白い着物が着せてある。目にはギャマンを入れてあるそうで、光の当て方で青くきらりと光るようだ。幽霊像を納めた箱の箱書きや由緒書きによれば、この像が作られたのは延享5年(1748)らしい。昔は夜のご開帳だったが、子どもたちが本気でこわがるので、昼の行事に変更されたそうだ。

幽霊像にお参りしたあと、参拝者には、昔ながらの「米飴=アメガタ」が配られる。この「アメガタ」は、福岡県柳川大松下のもの。毎年そちらから取り寄せている。筑後柳川はこの長崎の「光源寺」を開いた松吟法師が出られた「光源寺」があるところ。そのような関係で柳川の飴なのかな?

また、このお寺から寺町どおりを少し街中のほうに行った麹屋町には、昔、通称「ゆうれい井戸」というのがあった。光源寺の「産女のゆうれい」とこの井戸の言い伝えがいっしょになって、長崎独特の赤子塚伝説「飴屋のゆうれい」になっているらしい。

「飴屋のゆうれい」の民話の概要は以下のようなものだ。

「昔、麹屋町の飴屋に真っ青な顔をした京なまりの女が尋ねてきて、飴を1文分買っていった。翌晩も、翌晩も1文分づつ買っていく。7日目の夜、尋ねてきた女は、お金がなくなりましたが、どうか飴をめぐんで下さいというので、飴屋の主人は哀れに思い飴を渡した。
ずっと気になっていた主人が女の後をつけると、女は光源寺の山門をくぐり、本堂裏の新しい墓に消えた。
翌日、その墓を掘り起こすと、墓の中には、女の死体の横で元気そうな赤ちゃんが生きていた。住職は、その墓の持ち主を調べ、肉親に赤ちゃんを渡してあげた。肉親は大変喜んで赤ちゃんを受け取った。
それから数日後の夜、また飴屋の戸をたたく者がいた。飴屋の主人が戸をあけると、前に尋ねてきた女が立っていた。
女は、子どもを助け、肉親に届けてくれたことに感謝し、そのお礼がしたいので、欲しいものを言ってくれという。飴屋の主人は、この町内は水が少ないので困っている。と言う。すると女は自分の櫛を見せながら、明日の朝、この櫛が落ちているところを掘りなさいという。翌朝、主人は近くで櫛を見つけ、そこを掘ると新鮮な水がこんこんと湧いてきた。主人は町内の人と相談し、この場所に井戸を作った。この井戸はどんなに日照りが続いても水が切れることがなく、町内の暮らしを豊かにした。いつしか、この井戸は「麹屋町のゆうれい井戸」と呼ばれるようになった。…というお話。

このような赤子塚伝説はいろいろなところにあるらしいが、長崎の「飴屋のゆうれい」の特長は、
・幽霊は地元の女ではなく、京都なまりだった。・見つかった赤ちゃんの父親を探してその人に届け、父親からも感謝されたこと。・その後、幽霊が恩返しにくるところなど。

ちなみに、京都の六道珍皇寺近くで「京都名物幽霊子育飴」(みなとや幽霊子育飴本舗)が売られているが、その由来書きでは、ここの幽霊から生まれた赤ちゃんは飴屋さんが育ててのち高台寺のお坊さんになったという。余談だが京都の「幽霊子育飴」はべっこう飴系。


光源寺で「産女の幽霊」を拝見し、飴をいただいたら、数軒隣の三宝寺に行く。
お盆の16日は地獄の釜の蓋が開いて鬼も亡者も休むとされる閻魔賽日。三宝寺の閻魔堂で、16日のみご開帳の「地獄相変図」を拝見。地獄の様子を詳しく描いた大きな掛け軸だった。

盛夏の炎天下、あの世とこの世の境目を歩きまわったような半日だった。
この世のできごとだった証のようにバッグの中に「アメガタ」が1本。

産女の幽霊ご開帳風景
路地に残る幽霊井戸のポンプのなごり
光源寺でいただいた「幽霊飴?=アメガタ」
三宝寺の地獄相変図


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吉村昭作品を読み返しながら…

去る7月31日、作家・吉村昭氏がなくなった。

膨大な資料から導き出した事実に裏づけされた物語は、まるで平凡な日常を積み重ねているように淡々としているのだが、作品全体に大きなうねりをもって読者を飲み込んでいくダイナミックさがある。
司馬遼太郎の歴史小説が、ヒーローがヒーローとしてある歴史小説なら、吉村昭の歴史小説は普通の人が結果的に名を残すことに成る過程の歴史小説だと思う。

私にとって特別な吉村作品を挙げると
1.「戦艦武蔵」
2.「暁の旅人」
3.「幕府軍艦「回天」始末」

「戦艦武蔵」は圧倒的な作品だった。事実を積み重ねて書いていく手法のお手本とも言うべき作品。戦艦武蔵を造った会社で働いたことがあり、作品の中に登場してくる数人の方にお会いしたこともあり、武蔵建造の長崎在住とうこともあり、臨場感溢れる作品だ。今も読み返している。

「暁の旅人」は、幕末の医師・松本良順を書いたもの。臨床医学に賭ける良順の魂のすばらしさ、人柄の大きさが伝えられていると同時に、良順を指導したポンペのすばらしさを再認識させる作品になっている。
長崎では、西洋医学といえばシーボルトとその弟子たちが取り上げられ事実の姿以上に美化されているが、近代西洋医学の実践を伝え、多くの医師を育て、日本の近代医学の礎を築いたのがポンペであることを、この本から知ることができる。


「幕府軍艦「回天」始末」は、短編だが、幕末の洋式木造艦「回天」の行く末を追いながら、戊辰戦争のなかでの艦船の役割を知ることができた興味深い本だった。


吉村昭氏は 長崎に何度も取材に来られていて長崎のことを密かに気にかけてくださったようだ。

以前訪問した「三菱重工長崎造船所資料館」の展示に、あの豪華客船「ダイヤモンドプリンセス」号火災関連の展示コーナーがあった。
その中に、一枚の長崎新聞の切り抜きが展示してあり、「作家・吉村昭氏が長崎新聞に寄せられた激励の記事」というようなキャプションが付いていた。記事といっても、読者投稿のコーナーの小さな投稿記事だ。
大作家が一般読者と同じスタンスで読者投稿欄に投稿して、三菱長崎造船所の人々と長崎の人々にエールを送っているのに、ちょっとじーんとさせられた。
その後、吉村氏の随筆集「縁起のいい客」を読んだら、投稿のいきさつと、その後のことが書かれた「図書券」という随筆に出会った。ほんわりと温かいが未来に向けての希望が感じられる随筆だった。
一人の市井の人としてありつづけたいとう吉村昭氏と作品に流れる良質のヒューマニズムがぴったりと一致するような爽やかなエピソードだった。

また、「暁の旅人」のあとがきで、現在長崎歴史文化資料館に在籍されている本馬貞夫氏へのお礼の言葉が書かれていたので、資料館で本馬氏にお会いした時、そのことをお話した。

吉村昭氏は、長崎が絡む作品を書く時は必ず数多くの史料を調べ、現地に向うというスタンスで、その史料収集や解析のお手伝いを本馬氏にお願いされていたようだ。本馬氏は、長崎にある古文書を解読したり、整理したりして、今日流行の「長崎学」の底辺を支えられてきた優れた研究者のお一人だ。このような人が、バックアップしているからこそ、吉村作品はいぶし銀のような輝きがあるのだろう。吉村昭氏は、本馬氏のような優れた研究者の人脈を全国に持っていらしたのだろう。
本馬氏によれば、以前吉村氏に、ポンペの業績が日本ではあまり知られていないので、ポンペについて作品を書いてくださいよとおねだりしたことがあったそうだ。「暁の旅人」を読んでいるとそのお願いを聞き届けてもらったような気がします。と言っておられた。
「暁の旅人」は、もしかすると本馬さんへのプレゼントだったのかもしれないなあ。

吉村作品に共通するのは静かなヒューマニズム。
遺稿は、「死顔」という兄の死をみつめた私小説らしい。
自分の遺体の行く末を死んだ少女の目からみた「少女架刑」という衝撃的な初期の小説に呼応するようだなあと、感じたのは私だけなのだろうか。

 


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三菱長崎造船所初代所長は新選組隊士だった!

 白牡丹のつぶやきさんでも紹介されているが、「幕末の桑名」と言う本が発行されたようだ。(中日新聞記事にリンク)
その中で、バーバラ寺岡さんがひいおじいさんである「山脇正勝」について書いているらしい。
「山脇正勝」がバーバラ寺岡さんのひいおじいさんだったということは初耳だ。
そしてバーバラさんのひいおじいさんである「山脇正勝」が箱舘新選組隊士「大河内太郎」のことだというのも初耳。「大河内太郎」の本名は山脇隼太郎正勝。よく見ればたしかに山脇正勝ですね。気づかなかった今日まで。
それは、私にとってはちょっとうれしい「初耳」になった。

関係者以外は知らないことだろうが、三菱重工業長崎造船所の初代所長の名前は「山脇正勝」。
桑名藩士だったということ、箱舘戦争に参戦したということ、戊辰戦争で小指の先を無くしたなどというエピソードは、この会社の広報マンをしていたときにも聞いたことがあったが、この「初代所長・山脇正勝」が、「函館新選組隊士・大河内太郎こと山脇隼太郎正勝」と同一人物とは今日のこの日まで思いもつかなかった。

初代所長・山脇正勝は翻訳の仕事で三菱会社に入社している。明治17年、官営「長崎製鉄所」の工場施設を「三菱会社」が借用したとき初代所長に就任している。このころは、複数所長制だったようで、もう一人の所長はイギリス人だった。山脇正勝は当時の高島炭鉱の社長も兼ねていたようだ。

さて、函館新選組隊士・大河内太郎(こと山脇隼太郎こと山脇正勝)は、桑名藩の御小姓役だった人で、嘉永2年(1849)生まれ、ということは箱舘戦争終結時は、20歳。
戊辰戦争時に恭順派の家老を斬ってしまうほどの主戦派。古屋作左衛門の衝鉾隊に入って越後口の戦いに参戦して負傷し、その後、桑名致人隊に入って庄内のいくさで降伏したようだ。
明治2年に箱舘への使者を命じられ、4月14日に到着し、そのままは新選組に入隊て戦い、弁天台場で降伏している。たった1ヶ月の新選組隊士だが、自分の意志で入隊し、一番激しい戦いを戦い抜いたつわもの。降伏後は、他の桑名藩士と同様に明治3年に赦免され、桑名に帰らず渡米している。帰国後、岩崎弥之助と知り合って、郵便汽船三菱会社に入社。

使者として箱舘に渡り、新選組に入隊した20歳の山脇正勝は、まちがいなく土方歳三に会っているはずだ。それも、二股口から引き上げてきて、決戦の覚悟を決めた土方に。血気盛んな若者の目に、当時の土方はどんなに映っただろうか。
土方ファンとしては「山脇正勝が土方歳三についての感想かなにか残していないのだろうか」と、ついつい高望みしてしまう。


三菱長崎造船所の初代所長は新選組隊士だったなんて!
長崎と新選組の接点がこんなところにあったなんて!

新選組隊士・大河内太郎(こと山脇隼太郎正勝)。明治の世の中でひっそりと生きた新選組隊士の中では一番の出世頭ではないだろうか。


…こんなことを書いていたら、マグナムから「新選組!!土方歳三最期の一日」のDVDがとどいた。5月から始まるすてきなカレンダーのおまけつきで!

思いがけず、土方デーとなりそうな一日。

 


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祟福寺の媽祖(まそ)祭に参列させていただく。

昨日、長崎の唐寺・祟福寺で、航海の守り神・媽祖(まそ)様の誕生祭である媽祖(まそ)祭が執り行われた。

媽祖(まそ)は、宋代に実在した巫女で天気の予測ができたので、漁民を不意の台風などの危険から守ることができた。28歳で世を去ったが、漁民や船乗りたちは後にその徳を称え媽祖廟を建て、海の守護神としておまつりした。宋時代は霊恵尼、元・明時代は天妃、清朝時代は天后との称号を時の皇帝から贈られ崇拝されてきている。媽祖信仰は、福建省など中国南方のもののようだ。中国では文化大革命時代、媽祖信仰も禁止され多くの媽祖堂も破壊されたらしいが、その後立派なものが再建されているところもあるようだ。

古く長崎に貿易のために入ってきていた唐船は、航海安全のため媽祖像を載せてきた。長崎の港に入ると唐人たちは唐人屋敷での生活になるので、出航までの間、媽祖像を祟福寺や興福寺など媽祖堂を持つ唐寺にあずけ祭っていた。日本で古くから媽祖堂を持つ唐寺は長崎にしかないらしい。(最近横浜にも媽祖堂ができたと聞いたが…。)
越中先生のお話では、長崎でも、キリスト教禁止の江戸時代は、「媽祖祭」を「ぼさまつり」と読んでお祝いしていたそうだ。「ぼさ」とは菩薩。菩薩様のお祭りですから、他国の神様ではありませんとの言い逃れ。それが通っていたのも長崎ならではのことなのだろう。
郷土史家・越中哲也先生がお持ちくださった古文書にも「媽祖祭り」と書いて「ぼさまつり」と振り仮名してあった。

祟福寺の檀家は福建省出身の華僑の方々が多く、長崎の中華料理店の多くもこの寺の檀家さん。媽祖(まそ)祭は、その方々のお祭りで、ランタン祭のように観光化されていない、伝統的なお祭り。本来参列できるのは、檀家さんや中国関係の方々だけなのだが、皆さんのご好意と長崎歴史文化協会の越中哲也先生のご配慮で協会メンバーで希望者が参列できることになった。

媽祖堂前には、媽祖様をお迎えするため様々なお供えが飾られる。新鮮な魚介類や肉など、中でも豚と山羊の頭は長崎の人間以外には驚きかもしれない。本来は豚や山羊をまるのままお供えしていたそうだが、時代の流れで今では頭だけお供えするようになったらしい。それでも本物の山羊の頭をお供えできるのは、今年が最後かもしれないそうだ。厚生省だの食品衛生だのの法律が絡むらしい。伝統行事も時代の趨勢で変わらざるをえないのか…。

お供えを前にご住職たちによる読経、参列者によるお参り、それにお賽銭を意味する紙のお金をたくさん燃やして媽祖様が下りてこられるのを待つ。爆竹の合図で媽祖様の降臨を知ると今度は媽祖堂の中に新しいお供えをしてまた読経や参拝、お賽銭を燃やして、媽祖様の誕生日をお祝いする。お供えには長崎ならではの桃饅頭が山のように盛り付けられ、ピンクのゆで卵もどっさり!ピンクのゆで卵は誕生をお祝いするものらしい。イースターエッグを思い出した。

その後、お供えの豪華な料理が用意される。
みんなでお膳を囲んで、媽祖様のご馳走のおすそ分けにあずかるわけだ。
中華料理店では食べられない華僑の人たちの家庭でのもてなし料理がどっと出てきた。
もちろん卓袱料理の原型の丸いお膳を囲んで大盛り皿から取り分けていただく。
どの料理もそれぞれの中華料理の元になったと思われる味。女性陣は「これ、バンバンジーの原型かな」とか、「皿うどんのもとはこのビーフン炒めかしら」など、にわか料理研究人に早変わり。恐る恐るいただいた山羊のぶつ切り肉が入ったスープは、臭みもなく澄み切っていて思いのほか上品。澄み切ったスープを取るのはやはり料理人の腕のみせどころだろう。
家庭のもてなし料理といっても、長崎の華僑の人たちの多くは中華料理店を経営していらっしゃるので、料理の味はプロのもの。堪能させていただいた。さらに、お膳はきれいに食べ挙げて行くことが料理人への感謝でもあるので、残ったものは持ち帰ってもいいことになっている。

まる1日、中国と長崎の深いつながりを学び、普通はいただくことの出来ない華僑の人たちの家庭もてなし料理をいただくことが出来た。
祟福寺さんと、檀家のみなさん、それに越中先生に感謝!

そうそう、行事の模様や料理の写真は、友人のmogumiさんのサイトにアップされるだろう。そのとき、リンクさせてもらって、言葉では書きつくせないおいしさを目で再度味わおう。

 


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永井(玄藩頭尚志)さまが残してくれたもの=「土方歳三最期の一日」DVDを待ちながら

永井(玄藩頭尚志)さまが残してくれたもの=「土方歳三最期の一日」DVDを待ちながら 編集 | 削除

先日、三菱重工業(株)長崎造船所の史料館を見学した。

事前に予約をいれていたので、水の浦の門から造船所構内にタクシーで入ることができた。私は、ヘルメットと作業服で働く男の職場にどこか尊敬の念を持っている。そんな現場の空気に久しぶりにふれて、史料館に着く前にすでに、気持ちが高揚した。
史料館は、赤レンガの堂々とした建物だが、これは木型工場だったところ。レンガも工場のときのまま。広い。そんな中に整然と展示物やパネルが並ぶ。さすが世界に名だたる工場、チリ一つないし、展示物もきれいに掃除されている。それでいて温かい雰囲気があるのは、「ものづくりの先達たち」の「想い」が形になって展示されているからだろうか。

三菱長崎造船所は、長崎海軍伝習所取締永井玄藩頭の発案で安政4年建設着手され、文久元年(1861)落成した「長崎鎔鉄所」が前身になっている。
この日私が見たかったものの1つが史料館のまん前のルーブルならサモトラケのニケがあるような位置にどんとすえられていた。
「泳気鐘」という鉄の箱は、イギリス製の潜水用具で「長崎鎔鉄所」建設時の岸壁工事に使われたもの。
それと国の重要文化財で日本最古の工作機械である「竪削盤」。これも長崎鎔鉄所建設のため幕府がオランダに発注し購入した18台の工作機関係の中の1つだ。

発案した永井尚志は、長崎鎔鉄所が完成する前に江戸に引き上げているので、この機械たちが活躍する場を見てはいないのだろうが、この2つの展示物は、まちがいなく永井尚志の想いのかけらであり、残してくれたもの。幕府が真剣に近代技術を日本に移植しようとしていた証でもあり、永井尚志の近代性と決断力の賜物。これらに直接触った時は胸が熱くなった。

貴重な展示写真も数々。
展示写真の中にドイツ人技師カール・レーマンの姿を見ることができたのは幸運。カール・レーマンは私が追いかけている足立仁十郎とかかわりを持つドイツ人だ。


興味深い展示物ばかりだが、もう1つ胸を突き上げてくるものがあるコーナーが「戦艦武蔵」コーナー。
武蔵を中心に太平洋戦争終結時までにこの造船所が建造した艦船の写真がたくさん展示されている。その当時までここで建造された艦船は80隻。写真のキャプションを読んでいくとその多くが、戦時中に撃沈している。浅間丸など、この造船所が作った美しい客船も戦時中は運搬船や病院船などに改造され、航行中に撃沈されている。
送り出した船が撃沈されたというニューズを聞いた時の造船マンたちの心境を考えると胸が熱くなる。おまけにその中には何百人と言う人々が乗っているのだ。悲痛な想いに打ちひしがれながらも、次は沈まない船を造ろう!と心に決めながら日夜作業していたのだろう。ものづくりの人たちは、普通の人が思っているよりずっと感受性が強く、繊細でロマンチストなのだ。(この造船所で広報マンをしていたことがある私の実感)


永井様とロマンチ男といえば、もうすぐ「新選組=土方歳三最期の一日」のDVDが来るはずだ。山本土方の見返り美人なパッケージ付。
「ごめんなさいでいいではないか…」と土方を慰める佐藤B作好演の永井尚志にも久々に会えるわけだ。
永井様だって、相当なロマンチだよなあ。


※写真は史料館内部。右の大きな鉄の箱が「泳気鐘」、中央のハンドルが付いた機械が日本最古工作機械。どちらも150年の月日を経て残った永井様のロマンチの証。

 


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