歴史コラム・長崎の幕末・明治

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ブログその他に書いたコラムの中から歴史に関連するものを集めました。
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「JIN−仁」6話と長崎、精得館
5月22日のTVドラマ「JIN=仁 6話」は、長崎の西洋医学史を個人的なテーマにしている私にとって興味深いものでした。


南方先生が、長崎でペニシリンの講義をした「精得館」は、1861年(文久元年)に開院した日本最初の西洋式病院「小島養生所」と医学の講義をする医学所が、1865(慶応元)年4月統合され発足した施設です。
おそらく、当時の日本で最も先進的な医療機関だったと思います。

そしてアントニウス・ボードウィンは、幕府の要請でオランダから派遣された医師でユトレヒト陸軍軍医学校で教官として各分野の医療を教えることができた優秀な人です。
また、眼科が得意で、日本に初めて検眼鏡を導入し、その説明書を蘭訳し生徒たちに伝授しています。
ドラマの中で目を負傷したグラバーを、グラバー邸から少し離れた「精得館」に運んできたという設定も、納得のいく行動です。

ボードウィンは幕府に進言して、精得館と併設して分析究理所も設置しました。
1865(慶応元)年8月に完成した分析究理所は、物理学・化学など自然科学の科目を教えたほか、偽銀の鑑定や各藩から依頼された鉱産物の分析なども行っていました。

ボードウィンの生徒には、あの緒方洪庵の次男・緒方惟準や松本良順の息子・松本鑑太郎たちがいます。ボードウィンは帰国する時、国費留学生になった惟準と鑑太郎を伴ってアメリカ経由でオランダに帰りました。
長崎大学医学部には、ボードウィンの生理学、眼科、内科の講義録が残されています。
(写真左がボードウィン、右は分析究理所教授のハラタマ)

この6話には、もう一人、とても興味深い人物が登場していました。

グラバーの目の手術のシーンで、唐突に「無尽灯」というランプのようなものが登場しました。
「無尽灯」を掲げた生徒は、ひとり飛びぬけて老けていました。南方先生が、江戸に帰るとき、謝辞を伝えた彼は、自分の本名を名乗ります。

「久留米藩士・田中重久」

おお、「からくり義衛門」ではありませんか。「無尽灯」からアームストロング砲まで開発し製作した、幕末明治屈指のエンジニア。
慶応元年には、もう60歳代のはず。精得館で学んだ記録は残っていないと思いますので、匿名で学んでいると言う設定になっていたのでしょう。
在籍していたらおそらく分析究理所で学んでいただろうと思います。
南方先生は、餞別として彼にペンライトの電球を渡しました。
田中重久が明治8年に設立した田中製造所は、現在の東芝の基礎となります。田中重久は東芝の創業者なのです。
そして、「JIN−仁」の提供は東芝グループ。気の利いた演出でした。



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亀山社中の二宮又兵衛とは?

先日、亀山社中がある一帯を歴史散歩して、あるお墓にたどり着いた。
光源寺の墓所にあるそのお墓には、顕彰碑のようなものまで建っている。
そのお墓は「二宮又兵衛」という宇和島藩士の墓。

いったいどのような人かと、Web検索してみたら、複数のサイトで
龍馬暗殺後、亀山社中を切り盛りしていた人物で、なにかの不正をあばいて大井出橋付近で暗殺されたらしい。又兵衛の暗殺後、亀山社中は自然と解体した。またシーボルトの弟子で宇和島藩士の二宮啓作の甥に当たる人らしい。
などが、かかれていた。
二宮又兵衛について、書かれえいるホームページやブログのほとんどが同じような内容なので、なにか出典があっての記載なんだろうが、事実となると気にかかることがふつふつと沸いてくる。

まず、
・亀山社中は、龍馬暗殺の前に海援隊として土佐藩の付属団体のようになっていた。
・海援隊、亀山社中の主なメンバーを探しても二宮又兵衛の名前が出てこない。(私の調べる範囲が狭いのかもしれないが)
・龍馬暗殺後、いつの時点で二宮又兵衛という人物が亀山社中を取り仕切っていたのか、まただれから引き継いだのか。
・海援隊発足と同時に亀山社中と海援隊とは分裂したのだろうか。
・海援隊の記録の中に二宮又兵衛に関する記録がのこっているのだろうか。
・あるHPに書かれている内容によると、二宮又兵衛は知り合いの不正を暴いたため暗殺されたように書かれているが、この知り合いは亀山社中なのか、宇和島藩士なのか。どんな不正なのか。
・宇和島では、この人物のことをどのように伝えているのだろうか。

近藤長次郎や沢村惣之丞のように、自刃したり池内蔵太のように遭難したり、長崎で没した隊士の話はさまざまに書かれているが、二宮又兵衛という名前を聞いたのは初めてだった。

宇和島藩士、二宮又兵衛について、ご存知の方がいらっしゃれば、教えていただきたい。

二宮又兵衛についてかかれている主なホームページは以下(どれも記載されている事柄の内容や事実の範囲が似通っている)
・http://www2.ocn.ne.jp/~oine/character/matabei/matabei.html
・http://nagasaki-r.seesaa.net/article/111433387.html
・http://www.mirokuya.co.jp/mlmag/archive/vol334.html


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ある西南戦争戦没者と明太子の関係

以前も書いたが、長崎市内にある西南戦争戦没者招魂場である佐古招魂社には、戊辰戦争、台湾出兵、西南戦争で戦病死した御霊が祀られている。
そのなかに、西南戦争で政府軍として戦病死した警察隊の人々の墓石が60数柱ある。
多くは、川路利良大警視が率いた別働第三旅団(後に第四旅団に統合)所属の人々だ。
別働旅団は、長崎に集結し、船で熊本県の天草や八代に上陸し、西郷軍の背後を衝く部隊だ。第三旅団は明治10年3月25日長崎から八代に向かい上陸している。

佐川官兵衛や斉藤一のように旧会津藩士が警察官になり、西南戦争に出兵したということに興味をもったことから西南戦争を調べるうちに、長崎佐古招魂社にも彼らの墓があることを知り、3年ほど前から調査していた。
そして、その、埋葬者のリストを「長崎微熱」というホームページにアップしていた。 子孫の方に招魂碑の存在をアピールしたいと言う気持ちからだ。

最近、このブログを通して知り合った会津藩末裔のOさんとの交流から、埋葬者の一人のことが少し分かった。

その人は、樋口厳吾さん、没年齢19歳

厳吾さんの墓碑は残っていて、次のように刻まれている。
表面:警視局四等巡査 樋口 厳吾墓
右側面:明治十年四月十二日傷于肥後国山本郡植木之役同月十八日没于長崎警視病院齢十九年八月
左側面:植木口警視第四番小隊 千葉県士族

千葉県士族となっているが、厳吾さんはれっきとした会津藩士の家柄。なにかの理由で明治になってから千葉に住むようになったのだろう。

樋口厳吾さんは、会津藩士・白虎隊一番隊に属した樋口彦四郎の弟だということがわかった。
樋口彦四郎の所属する一番隊は戦の途中で分断され、家老たちの自刃を目撃したりして、彦四郎たちも一時は切腹を覚悟したが、生き残って戦うことを選び、命がけで籠城中の城に入り、籠城戦に加わったようだ。

彼は、明治になってから事業で成功し、明治の実業家として名前を残している。


Oさんと、樋口彦四郎御子孫の方との交流がきっかけで、樋口厳吾さんが、彼の弟だと言うことがわかった。
また、その本家筋にあたる会津の樋口家では、厳吾さんについて、「後妻の子であった」ことと「大変優秀な人物であった」ということが伝わっているようだ。

その総本家というのは、日本の明太子産業の父ともいうべき樋口伊都羽の子孫にあたるそうだ。

旧会津藩士・樋口伊都羽は維新後、職を求めて朝鮮半島に渡った。当時半島ではスケソウダラ(当時、朝鮮半島では「ミョンテ」と呼ばれ、漢字では「明太」と書く)の塩漬けをするとき、その卵は捨ていた。その卵を見た伊都羽は「これを日本人向けに商品化できないか」と考え、塩漬けや唐辛子を刻んで漬け込んだ。これが当時プサンで大人気になり、プサンの樋口商店の事業は大きくなった。
やがて樋口商店の明太子は、関釜連絡船で下関に伝わり、第2次世界大戦後、その中心は博多へと移っていったようだ。

招魂社の墓碑銘がまさか明太子のルーツにつながるとは思いもよらなかったが、会津の人々の結束と生きるエネルギーの強さ、ビジネス能力の高さを強く感じさせられた。


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明治5年・6年 大鳥圭介の英米産業視察日記」 を読む

明治5年・6年
大鳥圭介の英米産業視察日記」
福本 龍著  図書刊行会


大鳥圭介という明治維新のテクノクラートはとても興味深い人だ。
戊辰戦争時、実戦経験がないながらも旧幕府軍総督として陸戦部隊を率いて転戦し、箱館戦争では陸軍奉行として終戦を迎える。首謀者の一人として2年半にわ たる牢生活の後、明治5年1月無罪放免になると、翌月には明治政府が英米に外債を求めた外債募集団に随行してアメリカに渡っている。
外債募集団に随行してアメリカ、イギリスに渡ったときの大鳥圭介の日記を紐解きながら、工科学者、技術者としての本来の大鳥圭介の姿を知るとともに、大鳥圭介や外債募集団、岩倉使節団が明治維新の殖産興業にどのように貢献したかを知ることができる一冊だ。

江戸城無血開城後、日光、宇都宮、会津、仙台、箱館と旧幕府軍の同志を率いて闘ってきた大鳥圭介はもともと西洋科学を志した人だ。それも、築城などの土木 工学や西洋の兵法など実践的なものを一気に学び、それを伝えようとした姿は、学問に権威を持たせようとする学者というよりは、今の企業内研究所の所長兼エ ンジニアに似ているように思う。

大鳥圭介は、合理性と実践の人だ。
日本近代印刷普及の祖は長崎の本木昌造だが、大鳥圭介は本木より早くに、金属活字を使った活版印刷に取り組んでいる。この活字は大鳥活字といい、活字その ものは現存していないが、それを使った教科書数種類が残っている。多くの生徒に平等に教えるためには教科書が大量に必要になる。いったん活字を作ってしま えば、いちいち版を彫らなくても、組み換えで多種の本が作れると言う点に着目して実践するところに大鳥圭介の身軽さと近代性が垣間見える。その身軽さと近 代性は男の生き様としての戊辰戦争史の中では得てして軟弱な存在として表現されてきた。
大鳥圭介は、明治政府出仕後のことをあまり書き残していないようだ。しかし英米視察から帰国後、工部省の日本近代化と殖産興業への力の入れ方をみてもその中心人物の一人である彼の実力が大いに発揮されたことが読み取れる。

そのような男が先進の地で興味深く見てきたものは、やはり産業のベースとなっている科学技術だった。
岩倉使節団と一緒に滞在した英国では、ロンドンを拠点に、バーミンガム、マンチェスター、リバプール、ニューカッスルなどからスコットランドのエジンバラ やグラスゴー、ダンディーあたりまで足を伸ばして精力的に工場見学を続けている。見学した工場も、造船や鉄鋼業から、印刷や、薬品作り、皮なめし、ウイス キー醸造など多岐に渡る。日記には、見学した技術をこと細かく時には絵入りで記録している。
戊辰戦争で苦戦させられたアームストロング砲を発明した会社を訪問したり、エジンバラでは印刷工程を克明に記録したりと、彼の中に生きる過去の経験をベースにして新しい技術を理解していこうとする姿が垣間見えるのも興味深い。
アメリカに渡ってからも彼の精力的な見学と記録は続く。

明治政府が送り出した使節団というものが現地でどのようなことを行っていたのか?なんで2年以上にも及んだのか、疑問はあったがそれを教えてくれる書物になかなか出会えなかった。大鳥圭介が随行したのは岩倉使節団ではないが、この日記でその疑問の一部が解けた。


現代でも役人や高級官僚、議員たちの海外視察は大手を振って行われている。視察団の人々に大鳥圭介の十分の一でもいい、目的の明確な視察と記録を実践してくれればと思ってしまうほど、客観的な記述でありながら、その使命感をひしひしと感じる日記だった。


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松本良順の絵と日本最古の紙製解剖模型

昨日、11月15日は、坂本龍馬の誕生日であり命日でもあった特別な日。
龍馬ファンたちはそれぞれに感慨深い1日をおくったようだ。長崎の龍馬ファンの会の1つ「亀山社中ば活かす会」は、11日の日曜日に龍馬祭を行っていた。

長崎では今、とても貴重な史料が見られる。
長崎大学医学部が今年、創立150年を迎え、記念行事が行われているが、その中で医学部がもっている貴重な史料が公開されている。

長崎大学医学部の創立は、第2次海軍伝習と同時に開設された医学伝習所が前身になる。1857年11月12日、現在長崎県庁の敷地になっている1西役所の一室で、松本良順とその弟子達12名に、ポンペが最初の講義を行なったその日を長崎大学医学部は創立日としている。
この日から5年間、ポンペは日夜、彼の持っている知識のすべてを生徒たちに系統立てて伝え、13000人以上の人々の診療治療にあたった。

今回公開されている貴重な史料のなかで最も貴重なものは日本最古の紙製解剖模型(キュンストレーキ)だろう。キュンストレーキは日本に4体現存している。その中でも最も古いものが、ポンペが解剖学を教えるために万延元年(1860)フランスから取り寄せたこのキュンストレーキだという。
長崎大学医学部は、原爆爆心地から直線距離で200メートルくらいの位置にあるため原爆投下時は、医者、学生、医療関係者、患者など900人近くが爆死している。そのような惨状の中で奇跡的に生き残ったキュンストレーキだ。さすがに、150年の月日と、被爆などにさらさてて、頭もなく、右半身しかない不完全な形でしか残っていないが、その半身だけでも、その精巧さに驚かされる。
明日とあさっては医学部展が開催されるので、見学可能のようだ。ぜひ観て欲しいと思う。


もう1つ、とても因縁めいたものがある。
松本良順が書いた「お雛様の絵」。
お世辞にも上手と言えないが、あの男気あふれる良順がこんなにもかわいいテーマを選んで描いたと思うとほほえましくなるような着色の立ち雛を描いた絵。
「なんだか、定規とコンパスで書いたようなへたくそな絵ですね」と、案内してくださった図書室のH氏に言うと、「これは因縁のある絵なんですよ」との返事。
H氏によれば、この絵が描かれたのは安政7年(万延元年=1860)の雛祭りごろ。良順とポンペが熱望し、幕府にお願いしていた病院(小島養生所)の建設許可が下りたことを知らされて、大喜びした良順がそれを祝うような気持ちで、季節の象徴でもあるお雛様の絵を描いたらしい。
良順たちの要望を受け入れ許可と予算をつけてくれたのは、当時の大老・井伊直弼。
井伊直弼は、とても開明的な人で、開国派の中心的な人だったようだ。
良順が大喜びしてお雛様の絵を描いたころ、安政7年(万延元年)3月3日、雪の桜田門外で井伊直弼は暗殺される。くしくも雛祭りの当日だ。
その知らせが長崎に届くのは何日後だっただろう。
良順が書いたお雛様の絵と雛祭りの日に暗殺された、良順たちの理解者・井伊直弼。
そう考えると、このお雛様の絵が因縁めいたものに、見えてならない。
この絵の存在をこの日始めて知ったが、郷土史家の越中哲也先生にお話したら、「あら、その絵は、長崎大学医学部に保管されとったとね。よかったね。」と言われた。先生は以前この絵をご覧になったことがあるらしいが、他の郷土史研究の人に話してもほとんどの人はこの絵の存在を知らなかった。
西洋医学といえばシーボルト一辺倒の長崎の一般的な認識の中で、もっとポンペや松本良順の功績に目を向けて欲しいと彼らに肩入れしてきたことへのご褒美をもらったような気がした。

ご褒美はおすそ分けしなければいけないね。
長崎在住の人、たまたま長崎に旅行中の人、17日、18日は、浦上にある長崎大学医学部に行くことをおすすめします。
キュンストレーキや良順の絵以外にも解体新書よりも50年以上前に長崎の通詞によって翻訳模写された人体解剖図の本、被爆した永井隆先生の直筆報告書などもある。
「医学は長崎から」を裏付けるような展示物にひきつけられること間違いなしですよ。

 

 


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坂本龍馬は長崎くんちを見たのか?

明日10月7日から3日間、長崎は1年で一番華やかな時を迎える。
諏訪神社の秋の大祭「くんち」が執り行われる。
早朝から諏訪神社の境内で奉納踊りが執り行われ、その後奉納の出し物は町中を練り歩いて軒先廻りをする。午後になると諏訪神社から御神体を乗せたお神輿が大波止のお旅所に向かって御下りが執り行われ、諏訪神社の神様は9日の午後の御上りまで、お旅所に留まられることになる。
この秋の大祭は、幕末も行われていた。

「龍馬が愛したコーヒー」の社長で長崎龍馬会の金子君から、興味深いメールが来た。
「坂本龍馬はくんちを見ていた!」というものだ。

慶応3年9月11日(旧暦)の佐々木高行日記にこのようなフレーズがある。
「早天より昨日評議せる書き取り致し候ところ、商会より山崎直之進あわただしく来たり曰く、今朝諏訪神祭りにつき、下代島村雄二郎、田所安吾両人、波止場へ神輿を見物に罷りこし候途中、外国人両人とりあわし、ついに雄二郎より外国人へ疵をつけ候。右外国人は米一人ジョージアンデルソン英一人エドワードワルレン趣き相わかり候。それにつき、商会にて評議いたし候ところ、隠密にいたし早々、雄二郎、安吾は帰国したき様致す為、この段お届け仕しことなり。よってその場に居合わせたる者、種々の議論起こる。…

諏訪神社のお神輿を見に行った土佐商会の2人が外国人傷害事件を起こした。土佐商会ではこのことを隠して二人を国に帰すつもりと、佐々木高行に報告があったというものだ。

この議論の中に坂本龍馬の意見がある。
その場に居合わせた人の多くは、土佐商会の岩崎弥太郎の「隠してしまおう」という意見に賛成だったが、龍馬は、「やっとイカルス号事件の嫌疑が晴れたばかり。今度の事件を隠すと、後でばれたとき、イカルス号事件を蒸し返すことになる。奉行所に届けるべき」と主張している。多くの反対があったが、結局事件を奉行所と英国領事館に届け出ている。

このときの龍馬の落胆した様子が「土佐勤皇史」の中に書かれている。障害事件の第一報を聞いた龍馬は、柱によりかかり大きな息をして「またやったか」とつぶやいたそうだ。


土佐藩と龍馬がイカルス号事件の解決に追われる中、薩摩と長州は着々と倒幕の準備をすすめていた。薩長の思惑がわかる龍馬にとって、こんなことで時間をとっている場合じゃないのにと、情けなかったことだろう。

たしかに龍馬は長崎くんちの期間に長崎にいた。
彼の長崎での行動範囲はくんちの賑わいと重なる。
しかし、当時の龍馬は祭りを楽しむ気分にはなれなかっただろう。
いや、龍馬が目指す世界や新しい国の姿のダイナミックさからしたら、長崎の祭りなんか退屈な空騒ぎにしか見えなかったかもしれない。

くんちも終わった9月18日(旧暦)、龍馬は土佐にライフル1300挺を輸送するため岡内俊太郎・戸田雅楽・千屋寅之助らと震天丸に乗船し、長崎を出帆した。土佐へ錦を飾る船旅に出ることになったとともに、この日が龍馬が長崎の地を踏む最後の日になった

 

 


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長崎微熱  http://50s.upper.jp

 

 

製作・著作:平野惠子
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