歴史コラム・新選組、戊辰戦争

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  新選組のバックボーンを理解するならこの1冊!

「未完の多摩共和国=新選組と民権の郷」 
 佐藤文明著 凱風社

あと3ヶ月弱で、「新選組!!土方歳三最期の一日」を観る事になる。うれしいような惜しいような複雑な気持。
三谷幸喜が新選組のイメージアップに貢献してくれた功績は大きい。
一番はなんといっても山本耕史の土方歳三。しばらくはこの土方を越える土方は現れないと思う。実年齢に近い配役で若々しい群像劇になっていたし、さまざまな解釈がある流山の別れも納得のいくものになっていた。新選組ファンとしてはうれしいかぎりだったが、そんな三谷がなぜ?と、いまだに理解できない「あること」があって、手放しで三谷幸喜の新選組をすばらしいと言えないでいる。

「あること」とは、佐藤彦五郎と小島鹿之助の人物設定だ。
あれほど新選組を勉強したという三谷が近藤勇と義兄弟の契りを結んでいるこの2人がただの名主でなはいことを知らなかったはずがない。
開明的で相当の教養人であり文化人でもあったこの2人がどれだけ金銭的にも精神的にも新選組の支えになっていたかが、まったくドラマの中で表現されていなかったし、どちらかというとただの田舎のおじさん風に描かれていた。芹沢鴨をあれほど持ち上げるなら、その何分の一でも多摩のスポンサーたちの尽力を描いて欲しかった。

図書館で偶然にであった「未完の多摩共和国ー新選組と民権の郷」は、農民の子が武士になるという従来の立身出世願望型の新選組像では理解しにくい、新選組幹部たちと多摩のスポンサーたちの濃厚なつながりをわかりやすく教えてくれる。それは、もののふの郷であった多摩という土地が育んできた共和的なスピリットであり、それを守る多摩人ネットワークによるものだという。

幕末期の多摩は開明的な代官と優秀な名主たちの協議と自治力で発展してきた豊かな土地で、その中心的な存在である寄場名主は相当な支配力と資金力をもつ教養人たちであり、同時に胆力と行動力も兼ね備えていた。日野宿の寄場名主を11歳で継いだ佐藤彦五郎もそのような大人物だったらしい。この本は、佐藤彦五郎を中心に彼の周辺の人物や出来事にスポットをあてた歴史ドキュメントになっているので、当然ながら多くの部分が新選組の歴史とシンクロしている。
この本によって、初めて知ったことも多く、いくつかの疑問も解決した。


どのようないきさつで試衛館に神道無念流の錬兵館から応援が来ていたのか?という疑問があったが、斎藤弥九郎と江川代官の関係、江川家と日野・佐藤家の関係からその疑問は解けた。
ついでに言えば天然理心流は、多くの本で弱小の流派であるように書かれているが、いくつかの流れがあり、中島三郎助のような幕府要人も天然理心流を極めている。決して得体の知れない田舎剣法ではないのだ。

新選組のなかでの、土方歳三と井上源三郎の地位の不自然さにも疑問があった。八王子千人同心の家の出身であり年齢も上の井上が、新選組では、若年の歳三の下に位置している。井上は周斎先生の弟子なので、勇と兄弟弟子。実力がどうこうという人もいるが今の時代に置き換えても、歳三がナンバー2というのは不自然だ。
だが、これも、歳三が佐藤彦五郎の代理だとすると納得がいく。義兄弟の勇とともに将軍家を守って上洛したかった彦五郎だが、寄場名主という要職にあるため志は叶わない。そこで、自分の名代としてその責任を歳三に任せたのだとすると、副長の位置に歳三がいるのは理解できる。歳三が多くの手紙を佐藤彦五郎に送っているのも報告書の意味もあるからだろう。
また、歳三が市村鉄之助に託した言葉にもそれが表れている。「われ、日野・佐藤に対し、なにひとつ恥ずることなきゆえ、どうかご安心を」というのが伝言の言葉だ。

豊玉発句集の句の疑問も1つ解けた。
「公用に 出て行く道や 春の月」
この句だけはどうしても多摩時代の句とは思えなかった。理由は「公用」という言葉にある。薬売りや浪人のような身分の歳三に公用という言葉が似合わなかった。しかし、本書の著者によれば、この公用は義兄・彦五郎の命令で、気心の知れた小野路の名主・橋本家に行く用事らしい。なるほど、公用のわりには、のどかに月など鑑賞しているわけだ。
歳三は、佐藤家では、彦五郎からもノブからも実によくかわいがられている。
彦五郎は、歳三の死後、新選組の身内として中央から嫌がらせや無理難題を押し付けられているが、歳三の思い出につながるものは身を盾にして守っている。自分のもう1つの理想を自分の代わりに実現してくれた義弟への溢れんばかりの愛と男の意地を感じさせるエピソードだ。

明治期の多摩は自由民権運動の盛んな地でもあった。
新選組と自由民権運動。何も知らなければ相容れないとしか思えない2つのグループだが、根っこは同じという。脈々と流れる共和と自治の歴史がもたらす自由な精神が、通奏低音のように2つのバックボーンを貫いているのだ。

新選組のバックボーンを再認識するためには、この本が最良の道案内になりそうだが、定価2500円はちょっと高い。それでも、購入して損はないと一冊と思う。
ちなみに、著者の佐藤文明氏は、日野の上佐藤家の出身とか。


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 小杉雅之進の函館戦争の絵が発見されたそうだ。

キトラさんの函館ブログに「箱館戦争を描いた絵を発見・・・のニュース」という興味深い記事があった。同じ情報は、幕末クリップの宝庫白牡丹のつぶやきさんにもあった。

北海道新聞の、
箱館戦争新たな絵 20枚、人物画も 幕臣の三男作、横浜の子孫宅に 【写真】 によると、


幕臣の三男で、箱館戦争の記録「麦叢(ばくそう)録」の著書がある小杉雅之進(1843−1909年)の手による函館戦争の戦闘場面や漫画風に書かれた人物画、合わせて50枚が、横浜に住む小杉雅之進の子孫宅に残されていたという。この絵は、5日発売になった「小杉雅之進が描いた箱館戦争」(北海道出版企画センター、2310円)に収められているということだ。


小杉雅之進は、長崎海軍伝習所の3期生。蒸気方(機関科)に学び、勝海舟とともに咸臨丸で渡米した一人。戊辰戦争では、長崎海軍伝習所2期生の榎本武揚について開陽丸に乗り込み、蝦夷共和国政府の入れ札で、江差奉行並に選ばれている。

そういえば、榎本軍には長崎海軍伝習所の卒業生が数人いる。
一期生は  中島三郎助(箱館奉行並、開陽丸機関長)上田寅吉(開陽丸船匠長)
二期生は  榎本武揚、松岡盤吉(蟠龍艦長)
三期生は、 根津勢吉(二代目回天艦長)沢太郎左衛門(開拓奉行、開陽丸副艦長)小杉雅之進(江差奉行並)
回天初代艦長で宮古沖海戦で戦死した甲賀源吾や海軍奉行荒井郁之助は、長崎海軍伝習所1期生で幹部クラスの矢田堀景蔵の教え子。
海軍を率いてきた榎本軍だから当たり前といえば当たり前だが、それにしても優秀な卒業生たちばかり。1期生の幹部候補生で入って2回落第し、ついに卒業できなかった勝海舟とは大違いの人々ばかり。その落第生がしゃあしゃあと幕府海軍操練所のトップになったのだから、強運も実力のうち?


小杉雅之進が長崎海軍伝習所出身いうことで、話が大きくそれてしまった。
小杉の絵について語らなければならないんだ、今日は。

それにしても、上記の新聞記事に掲載された小杉の絵はとても近代的な描き方だと思いませんか。

スケッチのような描き方だが、鳥瞰の視点から望み、遠近感がはっきり出ているし、細かいところも特徴的な部分はしっかりと書き込まれている。現代の漫画やイラストを見るような違和感のなさ。小杉が技術者で、船の機関の設計図などを見慣れているのと、長崎で多くの海外の書物にふれてきてたことから備わったテクニックなのかもしれない。

もう1つ、小杉の絵を近代的に感じてしまう理由は、同じ時期に同じような立場の人が描いたもう1つの有名な絵があるからだ。
その絵は、新選組隊士・中島登の「戦友姿絵」。
「生来英才にしてあくまで剛直なりしが年の長ずるに従い温和にして人の帰するを赤子の母を慕うがごとし」と記された、陣羽織をつけた土方の絵を思い浮かべて見れば、その違いがはっきりする。
錦絵のような中島の絵だが、当時の絵としては、こちらのほうが一般的だったのではないだろうか。
これに比べると、小杉の絵はまったく異質だし、新しい。

小杉の描いた漫画チックな人物画に土方の姿は残されているだろうか?
残っていたら、中島登の姿絵と並べてじっくりと味わいたいと思うのは私ばかりではないだろう。


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 『新選組!!』キャスト続報がでたけれど…

「新選組!!」の追加キャストが紹介されていた。

 【土方歳三】…山本耕史さん
 【榎本武揚】…片岡愛之助さん
 【島田魁】…照英さん
 【尾関雅次郎】…熊面鯉さん
 【相馬主計】…小橋賢児さん
 【蟻通勘吾】…山崎樹範さん
 【山野八十八】…鳥羽潤さん
 【市村鉄之助】…池松壮亮さん
 【永井尚志】…佐藤B作さん

 【回想シーンで登場】
 【沖田総司】…藤原竜也さん
 【藤堂平助】…中村勘太郎さん
 【原田左之助】…山本太郎さん
 【永倉新八】…山口智充さん
 【山南敬助】…堺雅人さん
 【井上源三郎】…小林隆さん
 【斎藤一】…オダギリジョーさん
 【松平容保】…筒井道隆さん
 【近藤勇】…香取慎吾さん

だそうだ。
ちょっとぉ〜、回想部分にこれだけ出したら、本編はどうなるんだ?
土方の最後の一日は、昔を思い出すばかりなんてセンチメンタルなものにしないで欲しいなあ。前回の大河の配役がたくさん出るのはうれしいが、箱舘新選組はすでに京都とは別物。別物として京都並みのエピソードも盛りだくさんあるので、それをやって欲しいなあ。

新しい配役で注目は
待望の市村鉄之助=池松壮亮さん。今の大河「義経」で「源頼朝」の子ども時代をやった人。昨年(だったかな)上映された実写版「鉄人28号」で主人公;正太郎くんをやった子だ。かわいいというより芯のしっかりした少年の雰囲気なので市村にぴったり。

蟻通勘吾=山崎樹範さん。カムカムミニキーナ出身の旬な人。TV「電車男」のひきこもりくん。となると、蟻通勘吾の人物設定がかなり推測できますね。「歳三からの伝言」みたいに、ヘタレキャラかな。
蟻通勘吾の名誉のために略歴を書いておこう。彼は、池田屋では土方隊。報奨金15両ももらっている。行軍録では、沖田の一番隊に所属。一番隊では沖田の後ろに並んでいるのでNo2かな。その後ろに山野八十八が並んでいる。土方に従って鳥羽伏見を戦い、会津では山口二郎(斉藤一)が率いる新選組で白河口の激戦を戦い、重傷を負っている。中島登の覚書には「白川黒川ニテ戦死」と書かれているくらいだから瀕死の重傷だったのだろう。それでも箱舘に渡って土方が戦死した同日に函館山の戦場で戦死している。土方を慕っていた一人だろう。

気になるのは、安富才輔の配役が出ていないこと。
土方が戦列を離れていた会津では斉藤の助役をやっているし、箱舘では陸軍奉行添役として土方の最期の出陣にも同行している最重要人物。「燃えよ剣」でいけば、土方の最期を見るのはこの人だが…。それと、大野右仲も出て欲しい一人。土方の最期を語り残している人。土方が最期に言葉を交わした人かもしれない。

もう、伊庭や星や人見やブリュネはあきらめたほうがよさそうだ。
「組!」ファン(私もそうだが)からのお叱り覚悟で言えば、回想の人たちはいらないから、伊庭や星や人見やブリュネや甲賀源吾や中島親子が登場する箱舘がみたいのだ。斉藤が土方と袂を分かちながら会津とともに生きる姿を見たいのだ。

そうだ、山本氏がなにかで言っていたように、土方に弾が当たる前で終われば、また違った視点での続編や、サイドストーリーができるじゃないか。会津や箱舘の物語が、たった90分弱で流されるのが惜しくて惜しくて、悪あがきしている。


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 山野八十八も登場?「新選組!!土方歳三最後の一日」

昨年の大河「新選組!」の続編になるNHK正月時代劇「新選組!!土方歳三最後の一日」。
出演者の中に鳥羽潤の名前があったが、情報によれば山野八十八役らしい。

山野八十八といえば、子母澤寛の『新選組始末記』では、「隊中美男五人衆」のひとりに挙げられていた隊士。
美男五人衆とは、佐々木愛次郎、楠木小十郎、馬越三郎、馬詰柳太郎、山野八十八のこと。『新選組始末記』によれば、色白でいつもニコニコした人だったらしく壬生の水茶屋やまと屋の娘との恋のエピソードが残っている。
永倉新八の記録によれば文久3年8月永倉、斉藤、平山、中村金吾と一緒に四条堀川西の米屋の押し込み強盗捕縛に出動している。池田屋では出動名簿にない。行軍表では沖田の1番隊に属している。
「美男五人衆」のなかでたった一人戊辰戦争、箱舘戦争を戦った人なので、それなりに強かったのだろう。
山野八十八は、箱舘でも生き残り、のち京都下京の菊浜小学校の小使として働き、晩年は京都時代に残していた愛娘に引き取られて一緒に暮らしたとか。天寿をまっとうした一人。
明治22年、佐藤彦五郎の長男・佐藤俊宣の訪問を受けている。

大河のほうで登場しなかった山野八十八がわざわざ出てくるのは、なぜ?

なにかで、山野のプロフィールに、土方が箱舘から逃がしたとの記述を読んだことがある。そのときは、これは市村鉄之助の間違いだと軽く流したが、土方が逃がしたのは一人とは限らない。山野には、京都に妻と子どもがいる。それを知っている土方が「もう充分一緒に居てくれた。子どものためにも生き残れ」といって、決戦前に逃がした可能性も考えられる。
三谷脚本だから、きっとなにかの役割をもたせているのだろう。
配役が決まったら決まったで、やきもきすることが多い。楽しいやきもきだけどね。


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 るるぶボーイ伊庭八郎は歳三と会ったのかな?

いつ時代にもすごい才能を持ちながら運に恵まれない人がいる。伊庭八郎もそんな人だろう。それでも闊達で真っ直ぐな男ぶりには惹かれるものがある。短い一生のなかで彼が残した覚書から、グルメ部門を先に引き出してみたが、折角だからるるぶ部門(観光関連)も書き出してみた。(欠落や間違いもあるでしょうが、私の覚書なので、ごめん!)

日記が始まるのは、彼が将軍に随行して京都に着いたのは元治元年1月14日から。その中から見物や参拝などを抜き出してみた。

1月
14日   大津到着   新撰組は伏見城警護
15日  伏見から二条城へ。京都でのお家は、二条所司屋敷北定番組屋敷 馬術指南の鈴木十兵衛さんち 新撰組も伏見から二条城までお供して壬生に戻る
21日  北野天満宮、金閣寺参拝  
27日  長徳院参拝

2月
4日  御所近辺を見たあと下鴨明神で梅花を見物  近藤・土方は松平容保公に招かれ、前年八月十八日の変出動の恩奨金を賜る
8日  妙心寺  龍安寺、等持院、足利十三代の木像を見物
9日  土方、沖田、井上は将軍に付き添ってきた多摩の名主・富沢政怒の宿舎を訪ねるが留守
11日  本願寺参拝。 島原見物 感想:島原はことのほか粗末なものだった。
15日  東福寺、三十三間堂、耳塚 、伏見稲荷 
18日  父上のお供で大丸でショッピング
20日  御前試合
23日  宇治 平等院、宇治橋、黄蘖山万福寺 宇治から伏見京橋まで船で、あと竹田街道。
28日  仁和寺から愛宕山へ。途中雨にあって難儀している
3月
3月3日 土方、井上は富沢さんを誘って清水参拝、祗園で酒宴
4日  五条坂で陶器のショッピング
5日  近藤、土方、沖田、井上、藤堂は富沢さんを誘って島原木津屋で酒宴
6日  東寺、島原、本願寺の飛雲閣を見学
8日  嵐山を見物 太秦明神へ参詣 大悲閣に参詣。空蔵へ参詣 
11日 近藤、土方、沖田、井上、藤堂 武田で富沢さんを誘って島原で花見の宴
13日  五条坂で陶器ショッピング
16日  明け方に八十八ヶ所と仁和寺の桜見物
22日  鞍馬山で義経の甲冑、太刀、弁慶の太刀、牛若丸の稽古場天狗杉見学、貴船神社、上鴨神社参詣

4月
2日  西陣で織物見物
8日  東寺で杜若をみて、伏見稲荷お旅所の神輿を見て、西本願寺飛雲閣を見物
12日  大丸と四条通でショッピング 
13日 土方は江戸に帰る富沢さんに、佐藤彦五郎宛の鉢がねや書簡などを託し、井上と一緒に伏見まで見送る
14日 比叡山で登り口を間違い難儀。黒谷で中堂講堂開山堂を見物、坂本山王祭で甲冑や神輿が美しかった。唐崎で松を見物
18日から病気。どうも赤貝にあたったらしい。お見舞いが続々届く24日に回復

5月
3日  清水、祗園 五条坂で陶器ショッピング(お土産かな)
7日  いよいよ江戸に向けて帰ります。伏見豊後橋から大阪京橋までは船。大阪城到着。新撰組も随行
8日  心斎橋、日本橋、道頓堀、四ツ橋へ、天満橋を渡って天神さん詣
9日  難波、四ツ橋から網舟に乗って木津川から天保山あたりで網打ち体験。不漁でした。
10日  天王寺の茶臼山へ、お昼からは大阪城の中を見学
11日  天王寺清水参拝
12日  堺 天下茶屋  堺では花鋏を購入
16日  江戸に帰る上様の軍艦を天保山でお見送り。<b>新撰組は安治河口を警備し、上様を見送る
17日 大阪の街中見物
20日 住吉から堺浦まで観光 土方ら大阪西町奉行所与力内山彦次郎を天神橋上で暗殺
21日22日  奈良観光、大仏や寺院、神宮皇后の陵
26日  早朝 妙法院に行って大松を見る。あの「朝涼や 人から先へ 渡り舟」「其の昔 都のあとや せみしぐれ」の句はここに記されている、真田山からお城の外周見物。天満橋を渡り天神へ参詣、堂島の米市場を見学
27日  釣りをしたあと難波新地と高津へ。
29日  お友達と高津、難波新地行き、歓楽街?

6月
2日  釣り
4日  夜の道頓堀界隈見物
5日 池田屋事件
6日  陸路江戸へ帰るため明4時に旅宿を出立。八軒家にて夜が明けた。枚方にて昼食、伏見に16時着、
7日  深夜2時出立。大津で昼食。矢走を渡り草津に着。石部宿に12時着。川留。
8日  京での騒動の情報が届き、有志は上洛するようにと達しがあり、早駕籠で出発し明方6時に京に着
12日  祗園、四条河原で夕涼み見物
13日 土方、井上他、明保野亭事件の責を負って自刃した柴司の葬儀に参列
14日  京都出立 その後、弟が病気になり亀山藩のみなさんに丁重にもてなしをうけ、25日まで滞在。亀山藩は心形刀流を重用しているので、そのお家元の跡取り坊ちゃまのお成りですから、関係者のみなさん、大事にもてなしています。

仕事が警護であるため、平常時はわりとお暇なのでしょうが、それにしても積極的に観光している。この好奇心いっぱいな性格がかわいい。でも、じつは、結構大事な時に雨に降られて難儀している。案外つきのない人。

下線付きの太文字で土方の行動を入れてみて、驚いた。公務ではニアミスしきり。もしかするとお互い顔ぐらいは合わせたかもしれない。
平日は微妙にすれちがい。
お互いの気持ちの方向もすこしずれていたのかもしれない。
上洛して意気揚々、わくわくしているお坊ちゃまと、悪も非情も背負って必死で作り上げた組織に命を吹き込もうとやっきになっている成り上がり男という状態では、たのしい酒は飲めそうにない。
さらに伊庭くんたちどいっしょに将軍のお供で多摩の名主富沢さんが来ている。
土方くんは源さんや総司を誘ってしょちゅう富沢さんと飲んでいる。ホームシックなのかな?このころの土方くんは、張り詰めた気持ちをどこかで緩めたかったのだろう。だれかに甘えたかったのではないかな。せめて、1人でもいい第三者からよくやっているよとほめて欲しかったのかもしれない。このころの土方くんは切ない。「幕末の青嵐」の中で、富沢さんを伏見まで見送るシーンがある。見えなくなるまでずーっとたたずんでいた土方くんは、富沢さんの姿が豆粒のようになったとき、「まだ走ればまにあうな」とつぶやくのだ。このシーンは何度読んでも涙がにじんでくる。
年下で若い頃張り合っていた(かもしれない)伊庭くんでは彼の気持ちの重さを受け止めることはむつかしかったろう。

案外この二人は、5ヶ月間、気にしながらも結局は言葉も交わせずじまいだったのではないだろうか。自分が燃えて取り組むものがあるとき、男は過去を振り返らない。昔語りなどジジイになってからすればいいさ!と目配せしながらすれ違ったのかもしれない。


伊庭八は、総司、斉藤、藤堂と同年代。知り合っていればそれぞれに楽しく京都を遊べたのかもしれない。

※プチメモ:GMOインターネット株式会社の会長兼社長 熊谷正寿氏のおばあさんは伊庭八郎の妹だそうだ。


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 伊庭八と飲みたい魂胆は…

、「一度で良いからお酒を飲み交わしたい歴史上の人物は?」というアサヒビールの企画に乗ってみよう。

一番人気の坂本龍馬というのは、なんとなく楽しい酒だし、酔うと夢を語るロマンチックな男というイメージなのだろうか。私には、どんちゃん騒ぎをするタイプに見えるんだけど。どんちゃん騒ぎをしたあげく代金は人任せというタイプ。相手が女だろうが、払ってくれるなら乗っかっちゃえという節操なしのようだから、私もこいつとは飲まないぞ。
私の街では、こいつから酒代踏み倒された料亭がたくさんある模様。本人は出世払いのつもりだったが、出世の途中で死んじゃったから、結果払ってもらえないってところでしょうが。

新撰組の面々は楽しそうだけど運動部のコンパのようでデリカシーなさそう。ここでご一緒したいのは、源さん。風流ではないが、多摩の自然を語ってもらいながら酌み交わすお酒は心豊かになりそう。

私の一押しは、グルメボーイ伊庭八郎。
お坊ちゃまは、食通です。てんぷらパーティのために買出しだってできる奴ですから、わりとまめのようですし、江戸っ子ですから金離れもいい、女を楽しませるすべも知っている。若いけどマナーも心得ていそうで安心な飲み友達になれそうですよ。

なにより、この人は、「あの人」の隠しておきたい恥かしいエピソードをいっぱい知っていそう。
「あの人」って…もちろん「鬼の副長」といわれているお人のこと。
10歳近く年齢も違う彼らがどのようにして知り合ったか分かりませんが、悪所通いのお仲間のようですから、お互いの女性遍歴や好みのタイプや失敗など、隠しておきたい恥かしい部分を掴んでいるはず。
伊庭君を酔わせながら、「あの人」のかわいらしい弱みを聞き出すのも楽しそうです。「鬼の副長」を肴に美剣士と飲む酒は、きっと艶な酔いをもたらしてくれそう。


話は変わるけど、今の人で一緒に飲みたい人と聞かれたら、堺雅人氏。
この人を飲み友達に持つと3日くらい飲み続けても飽きないだろう。なにより興味のツボが似ている。薀蓄ではなく、もっと些細なことにこだわって、それを確認しあうことにちょっとした喜びを感じるタイプと見ている。
苔も虫も守備範囲だし、ちいさなことをうだうだ語るのも、そこから急に大宇宙の神秘や歴史上の謎の解明に話を拡散させるのも、お手の物という人だろう。この人は、感受性のポケットが極端に多く、それを表現するのに労を惜しまないタイプ。
いいですね。


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 グルメボーイ伊庭八郎はカステラを食べたか?

父の祥月命日も近いのでお供えのカステラを買いに行く。
この地はカステラの本家本元だから、どこのものを買うかうるさい。
老舗といえば福砂屋、松翁軒、文明堂の3店。全国的に有名なブランドで品質も折り紙付き。
そのほかにも極上品という匠寛堂、舌の肥えた人の間でここのが本来の味といわれている岩永
梅寿軒などがある。
知り合いが企画している商品に「龍馬のカステラ」というのもある。土産物だが、カステラの品質はかなり高い。底に敷かれたザラメの粒の大きさが福砂屋より大きいと自慢していた。幕末好きだった父のお供えは「龍馬のカステラ」がご愛嬌かもしれない。


新しもの好きな龍馬は、もちろんカステラを食べたことだろう。
彼が長崎で組織した「海援隊」の日誌に「正味、玉子百目、うとん七十目、さとふ百目、此ヲ合テヤク也、和蘭実方…」とカステラのレシピがかかれている。
若い男の子たちがわいわい言いながらお菓子づくりにいそしんでいる姿は想像しても楽しい。池田屋で悲しい死を遂げた望月亀弥太、彼もカステラを食べただろうか。龍馬とおりょうは新婚旅行のおやつにカステラを持っていったという人もいる。


土方さんから「ぼくよりずーっとお若いじゃん!」と言われた渋沢永一翁(このいきさつは白牡丹のつぶやきさんの「渋沢栄一と土方さんの遣り取り♪」に詳しく書かれている)も、その翌年、将軍徳川慶喜の弟昭武に随行してパリ万博に向う船の中でカステラを食べたという記録があるそうだ。異国の風に触れる手始めはお菓子とお酒というのは今も昔もかわらないなあ。


で、もう一人、土方さんがらみの人で、カステラを食べた記録を残している人がいる。
それが、伊庭八郎。
年齢は沖田総司と同じくらい、伊庭の小天狗と江戸で騒がれたお坊ちゃま剣豪。その姿は錦絵にまでなったらしい。こんなお坊ちゃまと土方くんの接点はどうも悪所通いらしい。このころの土方くんは、周助先生にお小遣いをねだったりしていたらしい。周助先生もお小遣いを渡しながら、あまりすぎて梅毒なんかになるんじゃないよって、にこにこしながら諭していたとか。なんてほのぼのなお江戸試衛館風景。


その伊庭くんは、22歳の元治元年の正月から、同年の六月まで将軍上洛の警護で京都に上っているのだが、そのときの日常のメモが「征西日記」として残っている。
この日記、まるで「元祖グルメ日記」とでも「元祖るるぶ」とでも呼びたくなるほど、観光と食べ物の話満載。

京都に着いた1週間目には、早速北野天満宮や金閣寺見物、鰻を食べて、この店は都一だなどと書いている。
それから毎日のように重箱が届いたとか、だれぞがお酒と千枚漬けを持ってきたとか、お菓子が届いたとか書いている。
食いしん坊すぎたのか、2月初めには虫歯が痛くてお仕事をお休みしているぞ。
大河の近藤くん、土方くんが二条城と間違えた島原にも行っている。その感想は「思ったよりみすぼらしい。」このメモから想像するに、彼、その後島原には行っていませんね。シャレモノはみすぼらしいことが大嫌いですから。

伊庭君のこととなると、ちょっと楽しく語りたいのですが、、今日は伊庭君のグルメ部分にスポットをあてよう。

彼の日記にある食べ物を羅列してみよう。

1月(15日京都到着):「澤甚」の鰻、重詰物、かぶ千枚漬け、酒、

2月(すぐ虫歯になる):鴨川辺りで夕飯に金串の鰻(まずかったそうだ)、枳殻殿から昼食をご馳走になる、至鹿亭で昼飯、、夕飯に鯉ともろこと玉子焼(ものすごく高かったとグチ)、頂き物の魚、りそばをご馳走になった、夕食接待したら鯛をお土産にもらう、宇治の菊屋で昼ご飯、忠内さん家でご馳走に、愛宕山で弁当、

3月:天ぷらパーティー、嵐山ふもとで昼ご飯、二条通で川魚、夕食会食、にわとりの差し入れで夕食、砂糖漬けをいただき酒を振舞う、とじょう代を払っているのでどじょうナベ?お菓子と鮎、またお菓子をもらう、ドジョウ汁、江戸表の干し蛤と干しばか、竹の子海苔、白須干二合とうるめ干物、菓子、料理二重、その間に夕食接待数回

4月:うなぎ、肴類を求めて調理し酒、赤貝、ドジョウ汁と煮しめ、鯛、桃菓子、鶏肉、焼鯛、玉子、梅干、味噌一升赤貝七つ、菓子、体調不良を訴えるとお見舞いがたくさんくる==鮑、煮豆、カステイラ、雪おこし、羊羹、またもカステラ、お菓子、葛。蜆、しるこ、煮しめをもらってカステラをお返しに、煮豆、沢甚のうなぎ、桑酒、しるこ、うどん、鯉、砂糖漬け一箱、

5月(江戸に帰るしたくで忙しい):桑酒、鯛、そば寿司、鱒、鰻、くらわんか餅、すし、鰻、菓子、鯛二枚と酒、堺の濱料理、てんぷらパーティー、汁粉、すし、あひる、

6月(江戸にかえる途中だったのに、池田屋事件で京に呼び戻されます。誰のせいだ!);てんぷら、砂糖、酒、アヒル、酒肴、叔父上様からご馳走してもらう、山崎氏のお宅で種々のご馳走、お菓子、菓子、酒肴、鮎、ご馳走になる、菓子、百姓屋にて夕食、赤飯、


まあ、短い日記の中に食べ物がこれほど登場するのも珍しい。仕事による長期出張なので、自炊したり、ご馳走になったり、お土産があったり、出前を取ったり、バラエティーに富んでいる。特に、てんぷらパーティーには、参りました。

カステラも2度ももらっている。
これは、やはり長崎からのものだろうか。伊庭君は虫歯になるほどだから甘党のようだ。きっとカステラも食べたことだろう。

こののんびりした日記を書いた彼が、数年後、戦で片手をなくし、船の難破で遭難し、やっとこ函館に渡ってきて、ものすごい銃創に苦しみ、虫の息でも五稜郭を離れたくないといって、土方を見送って死んでいくんですね。

伊庭八郎、粋で涼やかな江戸を象徴する男のひとりとしていつまでも心にとどめたい。


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 「地虫鳴く」木内 昇著:「点」すら残せない男たちの心模様

「地虫鳴く」 木内 昇著 河出書房新社

帯から引用する解説文
「お前が俺の役目、引き継いでみねえか」−−ある日、土方は尾方に監察の差配を命じた。
探る山崎、進む伊東、醒める斉藤、そして惑う阿部ーー。
兆し始めた「近代」に入っていこうとする、男たちそれぞれの、地を這う旅の行方。
走っても走っても、どこへも行けないのか。

「幕末の青嵐」で、みずみずしい青春小説のような新選組をみせてくれた著者が、また新しい「新選組」を書いてくれた。
従来の「新選組」では、脇役や仇役であった隊士たちをとりあげて、彼らが「近代」に向う歴史に翻弄されながらも彼らなりのやり方で「自分」を生きようとする姿を内面的な視点から描いた秀作。抗っても「歴史」に「点」すらも残せない人間たちの無力感が、現代にシンクロしてくる。


乱世を楽しむかのように生き生きしている山崎丞。この人も時代が求めた異才の一人だったのだろう。全編をとおして、彼の存在が強いアクセントになっていて、印象に残る。

兄弟を連れて入隊した谷三十郎の長男としての責任感と矜持。
理想に直進する伊東甲子太郎と、そんな兄のために汚れ仕事を引き受けている三木三郎のねじれた兄弟愛。
この2組の兄弟たちの兄弟愛が悲しいのは、どこか片思いに似ているからか。愛を注がれた側が無自覚であったり、その愛の現れ方をうとんじていたりするからだろうか。
伊東甲子太郎の生い立ちが悲しい。

確信をもって突き進む土方や伊東と違って、居場所も行き先も見つけられない阿部の戸惑いは、特殊な時代、特殊な集団に放り込まれた一般人の姿に最も近いのかもしれない。その阿部が、逃げないと決心して落ち着いた高台寺党だったが、その行く末が痛々しい。

もう一人、興味深い存在が斉藤一。
いついかなるときも自分に課せられた仕事をクールにこなす剣客は、内面的に謎の多い人である。
近藤、土方の信頼も厚く、難しい仕事を任される彼は、いかにも完成された大人の男を思わせるが、年齢は若い沖田総司と同じ。いくら天才的な剣客であっても、それほどクールに人間的なかかわりを切り離すことができるのだろうか、と,前々から気になる存在であった。彼は本当に人間的なつながりというものへの興味が希薄だったのだろうか。
信頼され、期待され、頼られる人は、どうしても、人を頼ったり弱音を吐いたりしにくい。
「できる人」ほど「甘え下手」が多い。土方歳三もそうだ。
土方と斉藤は同じ種類の人間なのだ。大河ドラマでも、土方は自分のこととなると「おれのことはいい」と言って自分を切り捨てる。斉藤も同じ台詞を言っていた。
沖田と同じ年齢の若い斉藤は、男として剣客として、年上の同士以上の信頼を勝ち得ている喜びもあっただろうが、沖田の人懐っこい「甘え上手」がうらやましかったのではないだろうか。
誰かと人間的なウエットなつながりを求めていたのかもしれない。会津以降の斉藤の生き方を見ると、どうしてもそう思えてならないのだ。
「地虫鳴く」の中の斉藤も、あくまでもクールで厭世的でありながら、ほころびの中から温かいものがのぞいてしまう若さを持って描かれている。


「地虫鳴く」は、男であり、武士であるがゆえに想いを伝える言葉をもたない男たちの、心のすれ違いの物語でもある。
しかし、ラストにすえられた景色に、全てが救われる。木内作品ならではの清涼感がいい。


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 アボルダージュ!「回天」・幕府軍艦「回天」始末

幕府軍艦「回天」始末    
吉村 昭 著 文芸春秋社刊(文庫版は文春文庫)

「回天」。開陽丸なきあと箱舘旧幕府軍の基艦となり、土方歳三らを乗せて、宮古湾に停泊中の新政府軍の軍艦「甲鉄」に「アボルダージュ(接舷襲撃)を仕掛けた船の名前だ。回天は外輪船のため、甲鉄の舷側に接舷できず、無理なかたちの接舷になり、結果的には失敗に終わった作戦だったが、世界の海戦史にも記録を残した。
綿密に練られた作戦だったが、天候や諸条件が味方しなかったために失敗に終わったこの「宮古沖海戦」になぜかとても魅かれている。クレーム覚悟で言えば、背水の陣ではあったろうが、男たちが持てる力を最大に活かそうとした作戦だったろうし、第一、作戦に腕白小僧のような若さを感じるからだ。大河続編で、この「宮古沖海戦」は入れてくれるかな?どんなシーンより、これをロケでやって欲しいと、不可能に近い願望を持っている。(パイレーツ・オッブ・カリビアンな土方くんよ!)

戊辰戦争の勝敗を決した要因の一つに、武器の違いがあったが、船舶保有力というのも大きな要因になっていると思う。
特に軍艦は、陸上輸送しにくい大砲を十門以上も装備し、陸戦兵士を多数乗船させて何の障害もない海上を移動する驚異的な兵器となる。幕末の幕府と各藩には合計100隻を越える洋式船舶があったが、軍艦をもっているのは、幕府と佐賀藩、薩摩藩くらい。

この本は、榎本武揚に率いられた8隻の幕府艦船と、その船とともに戦いつづけた旧幕府軍へのレクイエムともいえる1冊。

吉村昭得意の、史料やインタビューから引き出してくる事実の積み重ねで過去の出来事を具現していく手法は、やはり鮮やか。

慶応4年(1868)8月19日、徳川の処分が決まったのを見届けた榎本は、徹底抗戦派の幕臣を載せて開陽丸・回天・蟠龍・千代田形の軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・美加穂丸・神速丸の輸送船4隻の艦隊で江戸湾を脱出する。
その後すぐ、嵐で美加穂と咸臨丸が座礁して脱落。仙台藩で蒸気船・大江丸と帆船・鳳凰丸を加え、2800名の大所帯で蝦夷地を目指す。

榎本艦隊の最大の敵は、悪天候だ。開陽丸以外にもほとんどの船を悪天候や嵐が原因でなくしてしまい、箱舘決戦の時には、回天と蟠龍の2隻の軍艦しか残っていない。この事実だけでも、箱舘旧幕府軍がどれほど絶望的な状況にあったかが知れる。

回天と蟠龍の最後の奮戦も壮絶だが、なぜか悲壮さは残らない。回天も蟠龍も、最期まで思いっきり軍艦らしい戦いをしている。自分の役割をまっとうする潔さを感じさせる。

「幕府軍艦「回天」始末」は、箱舘戦争を第三者の目から冷静にとらえたニュージャーナリズム手法の数少ない1冊だと思う。


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「土方歳三、沖田総司全書簡集」

「新選組隊士山崎丞 取調日記」を手にしたあたりから、またぞろ土方たちの手紙への興味がわいてきた。もうずいぶん昔、豊玉発句集を知った時、土方はどんな文字をかくのだろうという興味から発句集の写真などが掲載された書籍を集めたことがある。
そのときの1冊に「土方歳三、沖田総司全書簡集」(菊池 明編、新人物往来社発行 3200円)というのがあり、未だに手元に置いて時々利用している。
中には土方歳三の手紙29通と沖田総司の手紙6通が、写真入で紹介されている。それぞれの写真の下には、解読文、書き下し文と解説があり、手紙がかかれた背景を知ることができて、とても興味深い1冊になっている。

最初のページの書簡は、万延元年25歳の歳三が、小島鹿之助の母親あてに、病気のお見舞いと薬の飲み方を伝えた手紙で、目上に人にあてたかしこまった文章がなんとなくかわいい。
文字のうまいへたは、それぞれの見方で違うだろうが、歳三は、幕末三筆の一人市河米庵のお弟子さん・本田覚庵や、そのお弟子さんの佐藤彦五郎から習っているので、その流派のポイントくらいは押さえているだろう。本田覚庵の日記によると、覚庵のところに一番通いつめていたのは歳三だったらしい。本田覚庵はお医者さん。歳三が大病にかかったという記録が残っているのも彼の「本田覚庵日記」。当時の豪農の文化度の高さは、地方の下級武士より勝っていたのではないかな。

土方は、じつに筆まめ。29通の書簡の中に数通、他人にかかせたものもあるが、あの忙しさのなかで、故郷にたくさんの手紙を送っている。

中でも一番おもしろいのは、あの京の女性たちからのラブレターをお土産にと書いたモテモテ自慢の手紙。
この筆跡は絶対に本人のものだろうから、新しく日記や書簡が発見されたら対照する元字になるのでは。この手紙、文字も心なしかウキウキしている。すごくおおらかだ。その末尾に書かれている句は、
報国の心を忘るる婦人かな 歳三いかがの読みちがい

おいおい!と言いたくなる浮かれ方だが、これを受け取って笑って受け流してくれる小島鹿之助との関係がわかってうれしい。歳三にとって幸運だったのは、故郷に彼をまるごと受け入れてくれる兄のような小島鹿之助や佐藤彦五郎がいてくれたことだろう。

実は、これまで本を読んだり、映画や栗塚土方を見ていても、この手紙の行為だけは、違和感があってイメージできなかった。
しかし、昨年の大河「新選組!」の山本耕史の土方をみて、スコーンとこの手紙を書いた土方がイメージできるようになったのだ。これだけでも、山本耕史の土方はもっとも土方らしい土方と断言できると思っている。
ヒロイックな土方はだれにでも表現でき、イメージできるが、人間臭い青臭い土方というのが初めて具現されたのが山本土方だったのだろう。洋装して、ズボンの前のあけかたの説明をするあの土方の自慢げな顔。あの顔なら、モテモテ文を書く姿をイメージするのはたやすい。
山本土方は、やはりすごくポイントの高い土方だったと改めて感心させられる。

沖田の書簡6通のなかで、最後の書簡は涙をそそる。

慶応3年の11月ころ、宮川音五郎(近藤の実兄)宛ての手紙で、
「老先生病気につき、ぜひとも東下いたす心組みに御座候えども、病気ゆえなにぶん心底にあいかなわず候…」という文章がかかれている。
老先生というのは、周斎先生。このころすでに病床にふせっていた。
大先生の病気が一番気になっているのは総司だろう。自分も病気で会いにいけないもどかしさが溢れた手紙だ。それでも、最近はずいぶん病状も快報に向っているから安心してくださいね。それより、大先生のことをよろしくお願いしますね。と書いている。
沖田らしい心遣いが表れていて、心が痛む。
天真爛漫のようでありながら、いつも誰もが心穏やかでいられるようにとの心遣いばかりをしてきた若者だったのだろう。彼が土方を慕っていたのは、本当の天真爛漫を土方に見ていたのかもしれない。

手紙の端々から見える二人の様子が手に取るように想像できる的確な解説もいい。
新選組関連本のなかで、かなりおもしろい本だと思っている


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