歴史コラム・新選組、戊辰戦争

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歴史コラム

ブログその他に書いたコラムの中から歴史に関連するものを集めました。
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5月5日と土方歳三
5月5日は土方歳三が生まれた日にちだ。
土方は、天保6年(1835年)5月5日に生まれている。これを新暦に直すと1835年5月30日になるらしい。
生まれを旧暦で顕すか新暦に直すか、さまざまな説があるだろう。
しかし、こと土方に関しては「5月5日」であることが大切な気がする。

5月5日は、端午の節句。江戸時代になると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じていたし、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝っていたらしい。
すでに庶民にもこのような情報は届いていて、武家の幟に対抗して、町方では紙製の鯉幟を揚げて祝ったらしい。

このように、男の子にとっては、一番晴れがましい日・5月5日に生まれているのだ。
他の月日ではない、5月5日という特別の日に生まれた自分に何かの運命を感じないわけはないだろう。

そんな日に生まれたのに、なぜ、武家ではなかったのか。なぜ武士になれないのか。まだ小さい頃の土方が、人生ではじめての不条理にぶちあたった。成長していくにつれても、この不条理に納得のいく答えをくれる人はいない。そのいらだちから、自分で矢竹を植えたり、剣術を習ったりと必死に武士の形を追うようになっていったのかもしれない。
土方の、あのちょっとはすに構えた性格もぶっきらぼうさも、その不条理に打ち勝つすべを持たない苛立ちとあきらめが作ったものかもしれない。

様々な記録に残る若い頃の土方の一途すぎて切なくなるようなな武士への憧れの行為。それらには、ただ単に無邪気な憧れだったとか、多摩の戦国武士の流れを汲んだ風土がなせることとは言い尽くせない、歯軋りさえ聞こえるような必死さがある。

「5月5日」という日に生まれてなかったら、土方はまったく違った人間になっていたかもしれない。そんな気がしてしまう。

若い頃、自然や生活を織り込んだ発句をたくさん残した土方。梅も牡丹もナズナさえも詠んだ土方の句に菖蒲や杜若がでてこない。なんの屈託もなければ勇壮な鯉幟や真っ直ぐに立つ杜若の清々しさは若者のうたごころをそそったはず。あえて無視して、通り過ぎたような気がしてならない。

5月5日生まれの土方は、明治2年5月11日にその生涯を閉じる。
その1年前の5月30日、沖田総司が孤独な死を迎えている。

新選組ファンにとっては、5月は特別な想いの重なる月だ



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「4月25日」は近藤勇処刑の日

「4月25日」という日付は「新選組」ファンにとっては特別の日だ。
近藤勇が板橋で処刑された日。

「4月25日」という日付は、あくまでも旧暦のものであるから、その日の気候や季節感を想像するには新暦換算して5月17日ごろの気候を想像して見る必要があるが、命日の「日付」というものはあくまでも「慶応4年4月25日」として記録されるべきものであり、新暦換算した5月17日を命日とするのは行き過ぎた解釈になるだろう。

「旧暦4月25日」は事実上の新選組が解体した日だ。
この日以降の土方が率いる新選組は、その目的も組織のあり方も近藤勇率いていたころとは違うものだと思っている。

多くの本や新出。既出の史料などを読むに付け近藤勇という人の魅力は、並々ならぬものがあったと思われる。
よくあるサラリーマンの上司にしたい有名人のトップクラスに入ってもいいくらいだ。

まず、いっしょに仕事をするときの安心感=池田屋での近藤の声で、他の隊士は不安にならずに闘えたという。わが身をさらして一緒に闘ってくれ、最後の始末をつけてくれる上司がいることはどれだけ仕事がやりやすいか。
男の愛嬌=女にもてているし、子どもからも恐れられていない。
分け隔てのない公平さと潔く頭を下げて礼をつくし、教えを請うオープンな人柄。
向学心。
父性の象徴のような人だったのではないだろうか。
男としての度量なら、西郷隆盛と並ぶ人だろう。

そんな近藤勇だが、新選組という集団の血なまぐささや闇の部分までも背負わされて、彼本来の良さはまだまだ認められていない。
新選組という組織の暗いイメージの元を作ったのは土方歳三によるところが大きい。その土方でさえ、人間的な魅力を掘り起こしてもらい、多くのファンを持っている。
その土方が最後まで陰として支え立ててきた近藤勇という人は並みの存在ではないはずだ。

土方ファンとして、土方を知れば知るほど、この人が無私で支えてきた近藤勇のオーラの大きさを思い知らされる。

人間・近藤勇をもっともっと掘り下げてくれる人が出てきてくれることを願う。
きっと、さらに魅力的な一面をみせてくれるのだろう。
新しい近藤像の発掘を一番願っているのは、彼を最後まで慕った土方歳三ではないだろうか。

今はまだひんやりする日もある4月25日だが、新暦に直せば風薫る季節。
大河ドラマの最後のシーンのようにせせらぎの蛙やアジサイの花、空にはツバメもいただろう。

黙祷。



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土方歳三についてのちいさな記述
会員の末席に名前を連ねさせていただいている歴史研究を主催している「歴研」が発行している月刊誌「歴史研究」の4月号に「土方歳三はアイスクリームを食べたか」という神奈川県の会員の方が書かれたちいさなコラムがあった。

記述によれば横浜にアイスクリームが伝わったのは明治2年5月らしい。横浜にアイスを伝えた船がそのまま函館に入っても、戦のさなかの土方にはアイスクリームを味わうほどの余裕はなかったろうから、土方は残念ながらアイスクリームを食べることはできなかっただろう。というような、なんでもない記事なのだが、なんとなく、うれしい。
書かれたのは男性だが、この方も土方を好きなのだろうか?書かれた方に親近感すら覚えてしまう。
この方も最後のほうに書かれているが、断髪・洋装の土方のことだからアイスを口にすることができたらきっと美味しそうに舌鼓をうったことだろう。
榎本から、「なんでも食べてみないと世間をせまくするよ」とか言われながら恐る恐る口にして、蕩けるような美味しさについ「うまい!」と言い、そんな無防備な自分を出したことに、はにかんでしまう土方を想像してしまう。
箱舘では、自ら粗食に甘んじていた土方に、最後のごほうびにアイスくらい食べさせてあげたかったなあ。

本書には、新人物往来社の大出さんが主催される「新選組友の会」による恒例の「勇忌」、「歳三忌」、「総司忌」の案内も掲載されていた。

「第3回 勇忌」は、4月9日 流山市・長流寺で午後1時から
       講演会講師は釣洋一氏
「第31回 歳三忌」は。5月7日 日野市・石田寺で午前11時から
       講演会講師は 黒須洋子氏
「第32回 総司忌」は6月18日 午前11時からいつもの菩提寺で(ここには直接問い合わせなどされると翌年からの墓参が禁止になるので、絶対に電話をかけてはいけないことになっているのであえてお寺の名前はかきませんのであしからず)
      講演会講師は伊東成郎氏

いずれも参加費は2000円、詳しいことや、参加申し込みはは、新人物往来社 大出俊幸様まで。


毎年、いつかは参列したいと思う歳三忌だが、今年も行けそうにない。
いつかは…というのは、能動的に踏み出さないと叶わないものだ!と自戒したりして…。



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  久々に土方歳三を実感した言葉
正月の「土方歳三最期の一日」以来、なんとなく土方歳三から遠ざかっていた。
これで、山本耕史が演じた土方歳三に決着がついたし、今後しばらくは、彼以外のだれが土方を演じても「違うよなあ」と感じるだろう。それほど大河「新選組!」の山本土方は若々しい人間土方を見せてくれた。あまりにもしっくりくる俳優に演じられて、私の中の土方像がややかすんでさえいた。

などと、大仰なことを言っているが、なんのことはない、最近土方に関する新刊本が出ていなかったのが、土方から遠ざかってしまっていた理由のすべて。土方関連本のほとんどは読んでいるのでよほど何かのきっかけで読み返すことがない限り、新刊がでないと、寂しい思いが続く。

新人物往来社の「歴史読本」5月号は、幕末京都志士日誌と言う特集が組まれている。京都に刻まれた志士たちの足跡を追うという形で、近藤、土方、龍馬、中岡慎太郎、桂、桐野利秋、慶喜、イバハチ、岩倉具視などの京都での行動を4ページづつにまとめ、それに各人の京都での行動年表がついている。また、会津藩、土佐藩、薩摩藩、長州藩の京都での動きをそれぞれの「藩邸日録」と言う形でまとめてある。
ひさしぶりに、幕末の京都での出来事をまとめて読むことができ、うれしいやらなつかしいやら。

土方歳三部分を書いているのは伊東成郎氏。土方や新選組関係の史料集などの著書も多い研究家だ。たしか『新選組日誌 上・下』や『土方歳三の日記』を書いたのはこの人だったと記憶している。
この中に、五稜郭で土方の指揮下にいた竹柴保次郎と言う人の話が出てくる。
自分が知っている土方歳三という人は、義にあつく勇敢で、少人数で大敵を破ることもしばしばあった。官軍の用兵は速やかで、背後をつかれることがあり、みんなそれを恐れたが、歳三は「ぜんぜんそんなことは恐れることはない。前の敵を倒したら引き返して背後の敵に向えばいい。向き合えば背後ではなく、前面の敵だ。」と言ったという。
常に前を向いていれば何事も恐れることはない。それが土方歳三の信条だった。と伊東氏は書いている。
「背後の敵も向き合えば前面の敵」 あたりまえのことだけど、すごい言葉。危機にあってこの言葉が言える土方は本質的にポジティブ思考の人。まっすぐ前を向いて突っ走った人か。

たった4ページの文章だが、久しぶりに、山本土方を脱いだ生身の土方歳三に出会ったようななつかしさを感じた。
つくづく、自分の土方歳三好きにあきれてしまうのだが、なんなのだろう、土方の魅力は…。
言論や思想を競い合うような幕末の志士たちの中にあって、実にシンプルな言葉で意表を付くような真実を伝える言葉の瞬発力。それも彼の魅力のひとつだ。

おかえり、土方歳三くん。



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箱舘戦争で気になっていること>>誰が「甲鉄」に乗っていたの?
箱舘戦争でずーっと気になっていることがあるのね。
昔から気になっているのだけど、私は戊辰戦争を旧幕府軍の側からしか勉強していないので、気になりながらもホームページやブログに書く勇気がなかったんだけど、最近、「会津葵と足立仁十郎について」以来知らないこと、気になることは、オープンにして、誰かに教えてもらうことが、解明の一番の近道だということを体験しちゃったので、もう言っちゃいますね。

それは「甲鉄」艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)のこと。
徳川幕府が慶応3年アメリカからの購入を約束した日本初の鉄板装甲の軍艦。
この船が日本に回航してきたときには、戊辰戦争が勃発していて、アメリカは局外中立の立場を取ってこの船の引渡しを保留していたけれど、慶応4年(明治元年)末ごろには、局外中立が撤廃され、翌年2月、ストーンウォール号は新政府に引き渡されるのね。
そして3月には新政府軍艦隊の艦船「甲鉄」として蝦夷共和国軍討伐のために、品川沖を出航、途中3月21日に宮古沖海戦、3月28日に青森港に入って、4月9日の新政府陸軍の上陸をサポートし、函館戦争へと突入していくわけだけど、

この「「甲鉄」を操船していたのは、いったい誰だったのか?」

これが、私の疑問なんですね。
引渡しから、出航まで1ヶ月くらいしかないし、日本で始めての鉄板装甲の蒸気船、それも排水量1360トンという大きさ。排水トンでは開陽丸より小さいが、新政府軍でその排水トンクラスの軍艦は薩摩藩の「春日」くらい。その春日だって木造船。たった1ヶ月で、わが国で初めての鉄板装甲・1300トンクラスの軍艦を動かすすべての技術を習得できるものかしら?
宮古沖海戦でも函館戦争でも注目の船なのに、そのときの乗船者の名前が歴史物語などにも出てこない。私が読んだ本の中では、1988年に出版された「だれも書かなかった箱舘戦争」(脇哲著)の中に「船長・中島四郎」の名が上がっていただけ。
中島四郎は長州人。なら、乗組員は長州人なのかな?長州の軍艦といえば木造スクーナー型蒸気船の丁卯丸125トンがあったが、鉄板装甲の1358トンの「甲鉄」艦とはあまりに違いすぎているので、丁卯丸の乗組員がすぐさま操船できるのか疑問だなあ。

「甲鉄」艦だけは、なぜかブラックボックスのように、乗船していた人の気配を掴みきれないのでいるのです。

実は、思うのです。
新政府軍に引き渡されてからも甲鉄艦には、アメリカから回航してきた外国人が乗り組んでいて、実際の操船は彼らがしていたのではないかなあと。
ほら、試乗期間というか、試運転というか、そんな名目で回航して来た時の船長、機関長から一般乗組員までが同船して日本人に指導しながら北に向ったのではないのかしら。
普通の航海は日本人に指導しながら進み、実戦になると操船になれている外国人が操船し発砲したのではないかなあ。
でも、まさか内戦に外国人が乗った船で闘ったとは言いにくいので一応船長は「中島四郎」に就任してもらったと。(中島四郎って、その前は丁卯丸の船長ではなかったかなあ。)

まあ、これは、あくまでも私の知識の範囲からの推測です。
私の知識は、旧幕府軍(蝦夷地共和国軍)側に偏った知識ですから、新政府軍に関する詳細はぜんぜん知りません。
「甲鉄艦」の乗組員について詳しいことを知っている人に教えてもらいたくて、恥ずかしながらの推測をかいてみました。

そんなことを色々考えていたら、今年初めにすごい本を見つけました。
『軍艦「甲鉄」始末』  中村彰彦著 新人物往来社 2005.12.25初版の新刊です。
昨日届きました。さっそく読み始めましょう。
さてさて、これで私の疑問は解消するかな?



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新選組!!」−「降伏もアリだと思ってるんだよ」と永井さまは言った。
「新選組!! 土方歳三最期の一日」で佐藤B作さん演じる永井玄蕃頭尚志の気持ちを考えるととてもせつなくなった。

今回のドラマの永井尚志は、ただひとり伝統的な具足をつける純和装をしているが、これは残っている永井の写真を参考にしたのだろう。伝統的な服装をしているが、永井は蝦夷共和国のなかでももっとも開明的な人だったと思う。このとき53歳。ちなみに土方は34歳。

永井尚志は34歳のとき、幕府が長崎に開いた長崎海軍伝習所の総監になっている。
長崎海軍伝習所は、幕府が諸外国に対抗できる海軍士官を養成するために設置した教育施設で、幕臣や諸藩の英才を集めてオランダ人教師の指導で航海術・蘭学・科学技術などを学ばせた。永井はそこの総責任者だ。長崎海軍伝習所の伝習生は、勝海舟や榎本武揚など4年間で約200人。

蝦夷共和国の幹部たちには長崎海軍伝習所や築地軍艦操練所出身者が多い。
・榎本武揚(蝦夷共和国総裁・長崎海軍伝習所二期生)
・沢太郎左衛門(蝦夷共和国開拓奉行・長崎海軍伝習所三期生)
・中島三郎助(箱館奉行並、戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋隊長・長崎海軍伝習所一期生)
・松岡磐吉(蟠竜丸の艦長・長崎海軍伝習所二期生)
・甲賀源吾(回天艦長で宮古沖海戦で戦死・築地軍艦操練所、長崎海軍伝習所一期生の矢田掘景蔵の教え子)
・荒井郁之助(蝦夷共和国海軍奉行・築地軍艦操練所教授)

幕府が日本近代化の核となる人物として育成した人材のずば抜けた優秀さを一番良く知っているのは、育成の総責任者であった永井尚志だろう。同時に近代化に必要な人材育成の大変さや学んだ人たちの苦労も知っている。
だからこそ、中でも最も優秀な一人・榎本武揚の蝦夷共和国樹立にささやかでも夢を託すことができたのだろう。
しかし最終決戦で、これらの人材を失うことは、その後の日本の大きな損失になることも身に沁みて感じていたはず。すでに宮古沖海戦で甲賀源吾を失っている。これ以上一人でも失いたくないというのが永井尚志の本心だったのではないだろうか。そのためには箱舘総攻撃は避けたかっただろう。降伏を決めた榎本たちを説得して欲しいという土方に向って「それもアリだと思ってるんだよ」という永井の気持ちを察すると本当にせつなくなってしまう。


箱舘戦争では海軍伝習所の同窓生同士が海戦を闘っている。
箱館総攻撃の日、蝦夷共和国軍でたった一隻残った軍艦「蟠竜」が撃った砲弾が新政府軍の軍艦「朝陽」の火薬庫に命中、「朝陽」は爆発沈没し、艦長の中牟田倉之助は重傷を負いながらも外国船に救出されたが乗組員の73名を失っている。「新選組!!土方歳三最期の一日」の中で、新政府軍の船が被弾し、爆発して沈むシーンがあった。船の破片に陽の字が書かれていた。「朝陽」だろう。
「蟠竜」の艦長は長崎海軍伝習所二期生の松岡磐吉、「朝陽」の艦長は佐賀藩出身で長崎海軍伝習所二期生の中牟田倉之助。「朝陽」は安政5年オランダから長崎海軍伝習所に贈呈された伝習所の練習艦だった。伝習生時代にお世話になった艦船に向けて発砲することになった松岡磐吉も複雑な気持ちだっただろう。
その後「蟠竜」は集中砲火をあびて浅瀬に乗り上げ航行不能となり、松岡ら乗組員は七重浜に上陸し撤退した。土方が七重浜方面に兵を進めたのは松岡たちの上陸をサポートするためだった。この海戦は松岡の勝利となったが、松岡は降伏後、収監された獄舎で病死。重傷だった中牟田は明治政府海軍で昇進し80歳まで生きている。

五稜郭降伏の2日前、5月16日に千代ヶ岡陣屋で徹底抗戦した海軍伝習所1期生の中島三郎助が2人の息子と共に戦死した。ペリー来航時、浦賀奉行与力だった中島は近代的な海軍の必要性を痛感していた一人だし、年齢も近いことから永井尚志にとって一番頼りにしていた人物だったのではないだろうか。すでに土方を失った後の中島の死に永井は全てが終わったと感じたことだろう。

降伏した蝦夷共和国幹部のほとんどが数年の収監後解放されているのも、彼らが新政府の近代化に最も必要なテクノクラートだったからだろう。日本の近代化の核に旧幕府が育てた人々が必要だったという皮肉がちょっとうれしい。



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「明治新選組」…相馬主計の最後
「明治新選組」中村彰彦(角川文庫)

1987年に出版された中村彰彦の処女短編集。
表題作は1987年光文社の第10回エンタテイメント小説大賞を受賞している。土方歳三の死後、最後の新選組隊長となった相馬主計のその後の物語。
明治2年5月15日弁天台場で降伏した新選組隊士たちは1年〜3年くらい収監されたのち釈放されているが、当時隊長だった相馬主計と横倉甚五郎は、坂本龍馬暗殺などの嫌疑で取り調べられ、横倉は獄死し、相馬は蝦夷共和国政府軍でただ一人終身流罪で新島に流された。しかし、明治5年10月、思いがけない赦免状が届いて自由も身になる。その日から突然の死までを描く。

「近江屋に来た男」は、龍馬暗殺の実行犯とも言われ、箱舘まで闘った見廻組・今井信夫のその後。龍馬の居場所をなぜ見廻組が知ったのか、薩摩と伊藤甲子太郎、佐々木只三郎の間になんの接点があったのか、そして龍馬暗殺の黒幕はと、自分の人生を左右した出来事の後ろにある力に自分なりの決着を付けていく今井の生き方を追う。

6編の短編の中で新選組に関するものは上記の2編だけだが、この2つの時間軸が重なるので二人の決着の付け方を比較しても興味深い。  


先日の「新選組!!−土方歳三最期の一日」に話が及ぶが、三谷幸喜は、新しく登場する新選組隊士に、蟻通、山野を選んだのはなぜだろうと気になっていた。正確に言えば山野を選んだ理由がわからない。蟻通は、土方の死と同じ日に函館山の攻防戦で戦死している。箱舘で戦死した新選組隊士たちの姿を蟻通に重ね、その壮絶な死へのレクイエムとしたのだろうと思っている。
では、山野八十八を選んだのはなぜ?
山野八十八は、箱舘での降伏者名簿に載っていない。降伏前に行方不明になっているが、その後、京都に戻っているし、明治22年には、佐藤彦五郎と会っている。箱舘での行動がわかりにくい山野をあえて登場させた意図がわからない。
もしかしたらもともとの台本には、山野の特長でもある、「隊中美男五人衆」の一人であることや京都に妻が居ることを思わせる会話があったのかもしれない。それによって、彼らが身も心もいかに遠くに来てしまったかを視聴者に改めて実感させるようになっていたのかもしれないなどと考えてもみた。しかし、それも憶測であって、実際には彼らの登場はあまりにも少なく、当然そのようなシーンはなかった。

気になって気になってしょうがない。それで、古いが新選組隊士録(平成10年9月発行・新人物往来社)を見て、驚いた。
ドラマの中で土方が島田、尾関、蟻通、山野を呼んで、池田屋事件当時から新選組に居た者は自分も含めてこの5人。これが本当の新選組」と言っていたが、たしかに、池田屋事件を経験し、箱舘まで来れたのはこの5人しかいないのだ。山野は貴重な生き残りの一人だった。
たった4年ほどの間に、池田屋時代をしっている隊士が5人しか残って居ないという事実はちょっと衝撃的だった。



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「新選組!!・土方歳三最期の一日」観ました、たのしみました。
3日と7日、2回しっかり楽しんだ。
しっかり楽しんで「おもしろかった!」で終わりたい!が本心。
でも、同じように、それ以上に情熱をかけて「新選組!、!!」を応援してきた皆さんが感想をアップしてくれている。自分は書かないで人様の情報を楽しむのはずるいよね。ということで、私もささやかに感想を書いておこう。


近藤の死後箱舘までの土方の捉え方は人様々のようだ。
私は、土方は死に場所を求めて闘っていたとは思っていない。今回の「新選組!!」を見たあともその考え方は変わらない。
死に場所を求めていた人間に大軍の指揮はできないはず。いくら天才的な指揮官であっても、その人に生きる意欲がなければ戦士たちはどこかで感じ取る。そしてそんな指揮官に命をあずけることに動揺し、戦闘意欲もそがれる。そんな軍隊が勝ち続けるはずがない。土方隊がそれなりに勝ち続けていることからしても土方は死地を求めて闘っていたと思えないのだ。
ただ、彼は自分の死を恐れてはいなかっただろう。それは、京都にあるときからそうだし、武士であれば戦いごとにその覚悟をするのも当然。さらに、自分を賭けた近藤が死んだ今、惜しむものはなにもないので、さらに峻烈に戦場に命をさらすことができただろう。いつも死を覚悟して命をさらすことと死地を求めて闘うことは、絶対に違う。

「新選組!!・土方歳三最期の一日」の中で一番気になったのはやはり土方の口から「死に場所を求めて闘ってきた」という言葉がでたことだった。でも、これは、三谷幸喜の土方像。三谷なりに、丸くはなったが人格の根本は決して変わっていないやんちゃな勢いのある土方を上手に昇天させてくれたと思う。


昨秋あたりから「土方歳三最期の一日」に向けた情報を読んでいると脚本家、俳優、製作スタッフたちのただならない熱い想いがどんどん伝わってきた。この暑苦しいくらいの想いが90分の作品に詰め込まれるのかと思うと、さすがに少し引いた。
最近涙もろくなったが私は、正面から「泣き」を取ろうとするドラマや演出が嫌いだし、特に時代劇では重苦しい演技が名演というような日本人的評価も好きでない。さらりとのれんをくぐるように自然でなにげない時代劇の名作はないものかといつも思っている。

その意味で、「土方歳三最期の一日」は、私の中では名作だった。

部分で見ると、脚本がいい、演出も照明も撮影もいい、役者たちは細かく計算し、絶妙の演技をしている、多用されている長回しのシーンと、かなり質の高いレベルのものが集まっているのに、出来上がったものがとても「軽いし、わかりやすい」。
熱意の渦からその中心にある一番熱い部分を取り出したんだなあ。最も熱い部分は「透明で静か」なのだ。


作品の中味に少しふれよう。
箱舘の土方を物語るエピソードが盛りだくさんに挿入されていてうれしい。
戦場でお酒を配るエピソードは史実では二股口の戦い時だが、函館山に変えて、それも敵陣からかっぱらってきた酒という勢いをつけている。ここで、新選組本体が函館市中を警備し、土方とは離れていたことをさらりと説明している。
吉村鉄之助に写真を託すシーンも本当はこの日ではないのだが、外すわけにいかないエピソード。ここは女性ファンの泣きを誘えるシーンだが、ポイントだけにしぼってさらりとやってくれた。残していったカンテラが後のシーンで重要なポイントになったのはにくい。
蝦夷新政府が市中から無理な徴税を決めるのに反対したり、決戦前にたまったツケを支払ったというエピソードも他人の会話の中にさらりと盛り込んである。それでいい。善行やかっこよさはさらりと見せてこそカッコイイ。

榎本との対話シーン、大鳥も含めての室内シーンはまるで演劇を観ているように飽かせない。舞台中心の俳優たちの台詞は「かつぜつ」が良くて聞きやすいし、台詞の機微や会話のタイミングがおもしろくて話の流れを自然に理解させていく。台詞の計算された積み重ねと、お遊びのポイントが絶妙だなあといまさらながら三谷幸喜の緻密さに驚いた。

榎本役の愛之助さん、掴み所のない複雑な榎本を好演。髭があっても愛之助の色っぽさは少しも翳らない。山本土方の色っぽさが青くはかなく見えるほど、堂々とした色気だ!
榎本と土方のシーンに、安部公房の戯曲「榎本武揚」がかぶる。食えないトリックスター榎本の言葉の数々に翻弄される固定観念の土方という戯曲だが、すでに海外経験が長く自己の固定観念を覆されてきた榎本と自分の経験を信じて進む土方は、先進性のうんぬんではなく、別の人種なのだと思う。
別の人種が心を開くまで論議することで、お互いを知り一つの夢に互いを託すことができるまでになるというメッセージか。

「あきらめない」という言葉が山本土方から発せられた。これだけで、これまで山本土方を応援し続けた行為が報われた。
夢があるなら勿論だが、夢がなくなっても明日が来るのなら明日のために今日をきちんと生きる。土方が、近藤と別れて以後生きてきた姿がそこにあると思う。

死の瞬間に香取近藤の姿が出てくるのは「新選組!」の続編としての予定調和だが、首を落とされる瞬間の「とし…」の映像とは不意打ち。不満がないわけではない。いっそ「オレの道場にこないか!」の若い近藤のほうがよかったなあと私だけの思い込み。


もっとも好きなシーンは、最初の「待たせたな」後の気心の知れた島田たちとののくったくない会話シーン。
慕われる土方だが、相変わらず多摩の歳三のやんちゃさが残っているし、死線を潜り抜けてきた猛者たちの心のつながりが見えてたのもしかった。この猛者たちが、土方の死後、母をなくした子どもたちのように泣きくれていたのだ。
この「土方歳三最期の一日」の中でも、残された新選組隊士のことを考えると一番悲しくなってしまう。

最後に一番感動したシーンは…。
だんだら羽織を裂いて決戦の「はちまき」にする土方のシーン。
こんなに美しいシーンを作ってくれた三谷氏、山本氏、吉川氏に最高の賛辞を贈りたい。
史実を考えれば絶対にありえないシーンだろうが、これこそ脚色の妙。
このシーンは、陸軍奉行並の土方から新選組副長土方歳三に戻った大事なシーン、箱舘の土方の象徴的な映像だ。


いざ、書き出したらぼろぼろと書きたいことが出てくるが、まずは、これまでにしておこう。
これで、皆さんの感想を読む資格ができたぞ。さあ、土方ファンブログ巡りだ!!



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いまさらだが、「土方歳三波涛録」(釣洋一)
土方歳三波涛録  釣 洋一著
新人物往来社 2003年9月 2800円+税

出版と同時に読んだ本なのでこのブログで書くこともなかった本だが、たまたま訪問したブログのコメントで、この本は土方ばかりでなく新選組のことが書かれているのにタイトルに土方歳三を付けたのは、そのほうが売れると版元が判断したからだろうということが書かれていたのを目にしたからだ。そのコメントのような取られ方ではあまりに釣洋一先生や新選組を表舞台に出し研究対象として支えてきた新人物往来社とその中心であった大出俊幸氏の立場がないと思い、いまさらだが、この本を私の愛読書として記録しておくことにした。

私は、この「土方歳三波涛録」の出版を待ちに待っていた一人だ。
「土方歳三波涛録」というタイトルで内容がわかった。きっと、私が待っているあれに違いないと。
この本の中の「土方歳三の足跡完全踏破記録」は、1998年9月に新人物往来社から発行された「別冊歴史読本 新選組隊士録」に掲載されたものだ。この中に12回の踏破の旅の印象深い話がいくつかさらりと書かれていた。雑誌のため字数に制限もあっただろう。12回の旅の詳細が記録された1冊が出版されるのを待ちに待っていたのだ。

確かに、出版された「土方歳三波涛録」には、12回の旅の詳細は掲載されず、近藤のこと沖田のこと、新選組全般のことが書かれている。しかし、それらの研究のバックボーンにあるものは「土方歳三の足跡完全踏破」を決行するに至った現場主義の研究者のこだわりやその意義である。土方歳三の足跡を同じ季節おなじ日時に同じ行程で歩くことから、釣先生には史料や伝承では読み取れない実感を獲得されたのだろう。
話は横道にそれるが先日「白牡丹のつぶやき」の白牡丹さんが二股峠に立たれたらしい。写真を見るだけでぐっと来るものがあった。土方の最期の勝ち戦の場所、確実に土方の闘志とやさしい心配りが発揮された場所に立つということはどんな思いがしただろう。白牡丹さんがこの場所に立つに至った思いは釣先生の思いにつうじるものがあるのだろうと思う。
この本のほかの項目も、同じ姿勢で調査されている。その意味では、骨子となる「土方歳三の足跡完全踏破記録」の「土方歳三」がタイトルに付くのはなんの不思議もないはずだ。

 本書のなかで、8年間も新選組に関する本を出していないと書かれているが、新選組の調査をされなかったのではなく、その他の調査も含めて日夜、その身を現場に運んで調査されていたために、本にまとめる時間がなかったからだと思う。その足跡は、本書のなかで、江戸切絵図を読み解きながら新選組関連の人物のルーツや場所の特定をしていくなど新しい調査をされているし、箱舘新選組(研究家菊池明氏の呼び方にならって)の唐津藩士たちを追った調査などに現れている。
確かに、大河ドラマの始まりにあわせて出版されているが、それは、大河にあやかって売ってやろうという下心より、折角大河で新選組をやるのなら、最新の史実を下書きにしたわかりやすい参考書を出してあげようという意図が強いと思う。なぜなら、新人物往来社と新選組の関係は特別のものだからだ。

新人物往来社という出版元について、知っていることをメモっておこう。
新選組を語る人でこの出版社を知らなかったら眉唾だと断言してもいい。
新選組研究本イクオール新人物往来社と言っても過言ではないほど多くの新選組関連本を出している会社だ。それも30年以上も前から。その中心となってこられたのが編集者であった大出俊幸氏。昨年定年退職されたらしいと聞いたがどうだろうか。その大出氏は多くの在野の新選組研究者や小説家を発掘された。沖田総司人気を作った森満喜子さんや大内美予子さんを発掘し出版させたのも大出氏。今年山本耕史の言葉を帯にして再出版された萩尾農さんの「散華・土方歳三」を1989年に初版したのも大出氏の新人物往来社だ。若手研究者・菊池明氏や山村竜也氏にも多大な影響を与えている。
出版ばかりではない、大出氏と彼が新人物往来社の中で作っていた「新選組友の会」は、毎年行われる「歳三忌」や「総司忌」、昨年からはじまった「近藤勇忌」の主催者でもある。(昨年から大出氏個人が主催になっているのは退職されたからか?)
その新人物往来社から「新選組再掘記」をはじめ「新選組誠史」や「新選組写真全集」「江戸幕末・和洋暦換算事典 」など、新選組研究のはしりから現在まで一貫して優れた研究本をだしているのが釣洋一氏なのだ。
「土方歳三」などと冠をつけなくても、釣洋一著、新人物往来社発行と書かれていれば、どんなに高価でも新選組研究者たちは手にとって見たくなる組み合わせなのだ。
「土方歳三」の名前で本を売るといわれて、一番恐縮するのは当の土方歳三かもしれない。土方をはじめ、新選組を人気者として明るい場所に引き上げ、いままで一貫してサポートしてきた彼らの恩を一番知っているのは、土方歳三や新選組のメンバーたちだろう。

この本は、装丁から内容に至るまで新選組への愛情のこもった一級の書籍だと思っている。



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パンと箱舘戦争と密かな恋心「美姫血戦 松前パン屋事始異聞」
「美姫血戦 松前パン屋事始異聞」 富樫倫太郎著 実業之日本社

「函館売ります」がおもしろかったので次回作を待っていたら今度も箱館戦争がらみとのことで、期待して読んだ。
今回は、松前が舞台。松前藩を占拠し、蝦夷共和国の松前奉行になった人見勝太郎が松前の和菓子屋藤吉にパン作りを依頼するところから始まる。人見と藤吉を引き合わせる男装の娘蘭子は、父の敵を討つために脱走軍に加わる。
パンなど食べたこともない藤吉のパン作りの苦労、冬を越すと必ず新政府軍が押し寄せてくることを覚悟しながら決戦の準備をしていく旧幕府脱走軍の人々。人見、伊庭の男の友情、蘭子を取り巻くほのかな恋心など、史実を交えながら物語らしい物語になっている。

根っから明るい人見勝太郎の存在が全体を清々しくしている。
土方も登場するが、ヒーローぽい描き方なので私には平凡な魅力でしかない。その土方が蝦夷共和国政府設立パーティ時にブリュネと会話するシーンがあるのだが、このシーンに仏語通訳として田島金太郎の名前が出てくる。本人は登場しないが、田島金太郎の名が出ただけで、私にはこの物語がぐっと身近に感じられる。

田島金太郎は、函館に現存している1枚の有名な写真に写っている1人だ。
その写真とは、ブリュネら仏人軍人と軍服を着た日本人が一緒に写っている箱舘戦争当時の写真だ。
前列左から2人目の外人がブリュネといわれている。そして前列右端にいるのが田島金太郎応親なのだ。嘉永4年の生まれで13歳で講武所にいり砲術を学び、「横浜仏語伝習所」で仏語を学んだ幕臣。箱舘戦争で生き残り、日清、日露戦争を軍人としてくぐりぬけ、軍人をやめてからニューカレドニアに行ったりしている。なんでニューカレドニアなんかに行ったのか?突拍子もない人だ。彼に関する興味深い話は以前このブログで紹介した鈴木明著「追跡ー一枚の幕末写真ー」に書かれている。

「美姫血戦ー松前パン屋事始異聞」は、函館戦争の側面を描いた物語としては平凡だが、日本人がはじめて取り組むパン作りの物語として興味深かった。

日本にパンが入ってきたのはいつなのか調べてみたら、1543年鉄砲と一緒に伝来したらしい。南蛮文化で栄えた長崎や平戸では盛んにパン作りがなされたが、一般には普及せず、その後鎖国になってパン作りは出島のオランダ商館でだけ作られていたようだ。

幕末近く、「兵糧」としてパンに着目した人がいた。
幕府から江戸湾の警備を銘じられた伊豆韮山代官・江川太郎左衛門だ。
1842年には、製パン所を作り、長崎からパン職人を呼び寄せて本格的にパンを焼かせたという。この時のパンは今の乾パンのようなものだったらしい。
日本人のためのパン作りの父はなんと、あの江川太郎左衛門だった。
江川太郎左衛門と聞けば「未完の多摩共和国」を読んだ人ならピンとくると思うが、あの多摩地域を治めていた開明的な代官だ。佐藤彦五郎や小島鹿之助のような優秀な名主を育成し多摩独自の文化と自治力の基礎を築いたとも言える人だ。
江川太郎左衛門は、砲術家の高嶋秋帆とも面識があったようなので、兵糧としてのパンの利点は案外長崎出身の高嶋秋帆あたりから聞いたのかもしれない。「美姫血戦ー松前パン屋事始異聞」のなかで、人見勝太郎が兵糧としてパンを考えたのは、この江川太郎左衛門の事例を知っていたからだろう。
ヤマザキパンのホームページには、「パンの祖」江川太郎左衛門が国産第1号のパンを焼いた日は1842年4月12日、これを記念して毎月12日を「パンの日」にしていると書かれている。

ちなみに、韮山代官所で国産第1号のパンが焼かれた年、土方歳三は7歳、前年におかあさんを亡くしている。沖田総司は生まれたばかり。



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