歴史コラム・新選組、戊辰戦争

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土方歳三の辞世らしい歌が発見されたとか

「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」

2週間ほど前、知人が「土方歳三の句が出てたよ」とのメールをくれた。
正確には、句ではなかったが、たいへんうれしい発見だった。

土方歳三辞世に新説
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110615-OYT1T00681.htm?from=y10

リンク切れになる可能性があるので、一応よみうりオンラインから転載させてもらった。(写真も掲載されていたが、それまではちょっと、ね)

新撰組副長・土方歳三(1835〜69)と最後まで行動を共にした隊士・島田魁(かい)(1828〜1900)がまとめたとされる和歌集の巻頭歌が、土方の辞世と考えられるとの説を、幕末研究で知られる霊山(りょうぜん)歴史館(京都市)の木村幸比古・学芸課長が打ち出した。
「従来、辞世とされてきた歌は詠んだ日時の推定が難しいが、巻頭歌は間近に迫る死を覚悟した内容で、亡くなる前日に詠んだ可能性が高い」としている。
歌は「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと(鉾を手に取って月を見るたびに思う。あすはしかばねの上に照るのかと)」。島田家に伝わる和歌集の冒頭に土方の名で記され、和歌集は26年前に同館に寄贈されていた。
木村課長が今年、修復にあわせて、ほかに名のある30人を調査、大半が新撰組隊士や幕府側の藩士らで、戊辰(ぼしん)戦争(1868〜69)で降伏し、長く生きたことがわかった。自然のはかなさを詠んだ歌が多く、維新後に隊士らが作り、島田がまとめたと判断した。
土方は、旧幕府軍の指揮官として戊辰戦争に加わり、新政府軍の総攻撃を受け、銃弾に倒れた。生き残った藩士らの証言などによると、その前夜、旧幕府軍幹部らが惜別の宴(うたげ)を開いていた。木村課長は「歌には悲壮な決意が示されており、土方が明日の死を予期しながらこの席で詠み、島田が大切に記録していたのでは」と話す。
(2011年6月15日14時49分 読売新聞)

これまで土方の辞世の句とされているものは
明治7年 小島守政の「両雄逸事」 のなかにある

「よしや身は蝦夷が島辺に朽つぬとも魂は東の君や守らむ」

※その後、 小島守政の「慎斎私言」、橋本清淵の「両雄士伝補遺伝」 では、「たとい身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君や守らむ」となっている。

この辞世は、どことなく、吉田松陰の辞世「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」に似ているということで、いろいろな説があるようだ。
私が聞いているものは、おそらく一番一般的なものだろうが、土方が負傷し湯治した東山温泉で松陰の辞世を知ったというもの。
土方が投宿していた「清水屋」には、嘉永4年に吉田松蔭と宮部鼎蔵が宿泊した事があり、清水屋の主人から松蔭の話を聞いた土方が、その信念を通す生きかたに感銘した。そこで知った松陰の辞世を参考に、自分の辞世を詠んでいたというもの。
これには、いろいろと突っ込みどころがあるが、「言い伝え」というのはそんなものだろうと思っている。

ただ、私が思い描いている土方歳三と、この辞世は、なんとなくしっくりこない。
松陰の東の君は天皇のことだろうが、それなら土方の東の君はだれ?
すでに守るべき徳川も会津もない。朋友近藤勇のことか。自分が最後まで武士らしく戦うことで士道に殉じた近藤の名誉を守ると言う意味とも取れる。
それに、若い頃から俳句を嗜んでいた土方が、いくら感動したとはいえ、他人の歌をまねるだろうか。
たしかに、和歌には本歌取りという手法があるが、これほどわかりやすく元歌を連想させる歌を詠むかなあ。

それに比べると、今回発見された和歌は、いかにも土方歳三らしいと感じた。
冴え冴えとした月の光に照らされた戦士たちの屍。戦士たちが抱えていた憎しみも恐れも虚無感も浄化させてしまうような月の光の美しさと悲しさを感じる。
少なくとも、この和歌のほうが、歌詠みや発句の経験者の歌だと思う。

土方歳三の若い頃の発句集「豊玉発句集」の巻頭の句は

「さしむかふこころは清き 水かがみ」

静かな水面(水鏡)に向かって、自分の心は今一点の曇りもないという句。
このあと、40首の自然を織り交ぜた句が続く。
ほんわりと暖かさを感じさせる句が多く、冷徹な土方のイメージから遠い。
春の月が出てくる句も多い。
発句集の最後の句は、「梅の花咲かるるだけにさくと散」
これが〆の句というわけでなく、時間があれば、まだまだ発句は増えていっただろう。
しかし、京都に行って、彼の人生はたいへん忙しいものになった。
発句する繊細な心を遊ばせるほど京都での彼の毎日はやさしくなかった。
5年間走り続けて、北の大地でやっと心を遊ばせる時間ができたのかもしれない。
箱舘に渡ったメンバーに、中島三郎助がいた。
浦賀の与力としてペリーの旗艦に乗り込んで交渉役を務め、長崎海軍伝習所の1期生になり、その後、軍艦教授、軍艦頭取を歴任した人物で、彼も俳諧が趣味だった。
蝦夷地の長い冬、有志があつまって句会を開いたらしい。
中島三郎助は土方を誘ったかもしれない。
旧幕府軍の主要ポストに付いていた人で箱舘で戦死したのはこの二人だけ。
二人の共通点に俳諧、発句があるのも何か因縁を感じる。

「豊玉発句集」の最後に、発句ではないが、
「鉾(ほこ)とりて月見るごとにおもふ哉(かな)あすはかばねの上に照(てる)かと」を置いてみよう。

巻頭の水鏡の句と共通する空気感があると思うのは私だけかな。

この和歌が、本当の辞世かどうか。
そうなるとこれまで辞世として伝わっていた和歌はどうなるのか。
まだまだ不明な点がたくさんあり、時間がかかることだろう。
私にとっては、どちらが辞世の歌だったかということはあまり大きな意味を持たない。
それより、私のイメージに近い土方歳三の和歌が出てきたことがうれしい。

できれば、この島田家に伝わる和歌集に収められたすべてを読んでみたい。



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七草の日と言えば、思い出す一句
  春の草 五色までは 覚えけり   豊玉

正月7日、七草の日。
七草と聞くと、必ずといっていいほど、この句が思い出される。
いや、俳句に疎い私が知っている七草に関する句はこれしかない。
だから、毎年のように、七草の日はこの句のことを書いている気がする。
この句が秀句なのか、凡句なのか、そんなことはわからない。
それでも、なんとなくほのぼのとしたのどかな感じがする。

七草の草摘みに出かけたのかな、5種類までは見つけたけど、「あとの2種類はなんだったけ?わからないや」というような句。わからないから困った、どうしよう…という切羽詰った感じではなく、わかんないけど、ま、いいかな。なんとかなるだろう」みたいなのどかな感じがする。
この人のお家には、だれかがきちんと七草の準備をしていることだろう。この人のきまぐれに頼っていない。
いつもはお手伝いもしないでブラブラしている子が、新しい年にちょっと張り切って「じゃあ七草を摘んでくるから、まかしときな」とでも言って飛び出したのでしょう。お家のひとは、くすくす笑いながら、「あんなに言うけど、あいつは七草がなんだかわかりもしれねえから、女衆で摘んできてくんねぇ」と、いつものように準備にかかったはず。
威勢良く飛び出したこの男、小さい頃から頭のいい悪がきだっただけあって、5種類までは手際よく摘んだのだろうが、案の定「はて、あと2種類はなんだぁ〜〜?」となったのだろう。
でも悪がきは、お家の人が自分なんか頼りにしていないことも知っているので、草摘みは途中で止めて、覚えた手の俳句をひねることに専心しちゃったんだろうな。
きっと、そのあとはそのまま棒でも振り回しながら、日野宿の庄屋さんの道場まで歩いたのかもしれない。

この気まくれの悪がきは誰か?

そう豊玉発句集という句集を実家に残して京都に旅立った男  土方歳三。

「春の草 五色までは覚えけり 」は、新選組の鬼の副長・義に準じた最後の武士と言われて人気の土方歳三の若い頃の句。
農家と言っても「おだいじん」といわれた豊かな農家の五男に生まれた歳三の若い頃は、案外いまの若者に似たような存在だったと思う。親に押し付けられて奉公に出たりしているが続かず、その後は、家業の一部でもある薬売りなどしているが、今のフリーターのような毎日だったのかもしれない。

そういえば、この人の句集の中に新年を詠んだ句もある。

「年礼に 出(いで)て行くぞや とんびだこ」

ちょっと格式ばって張り切った男の子の姿が目に浮かぶ。
こんな平和な男の子も幕末という乱世の中で命を捨てて戦う男に変身しなければいけなかった。
武州日野の自然を愛した土方歳三。
彼が命を賭けて守りたかったのは、本当は幕府でも武士の誇りでもなく、武州の自然と故郷の人々だったのかもしれない。ずっとそう思っている。

ちなみに春の七草は
「せり なずな 御形 はこべら 仏の座
すずな すずしろ これぞ七草」

七草を刻むときに歌う歌は
「七草なずな 唐土(とうど)の鳥が
      日本の土地に 渡らぬ先に 七草生やす
         トントントン トントン ストトントン…(この部分はあやふや)」
なんだけど、なぜか、
「七草なずな、七つの晩に 鶴と亀がすべった…」と自然に「かごめかごめ」に繋がってしまう。

困ったな。



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「人の世の ものとハ見へす 梅の花 」

土曜日の会食で着た着物をやっと仕舞った。

ぽかぽか冬の陽がさしこむ場所で、着物をたたむ時間は、それなりにゆったりとした贅沢なひととき。
その着物をながめていると一句浮かんできた。

人の世の ものとハ見へす 梅の花

もちろん、私の句ではない。
あの新選組・鬼の副長、土方歳三の句。
彼が、まだ何者でもない若造だったころの句だ。

咲き乱れる白梅の林を夜にでも見たのだろうか?
私には、そんな情景が浮かんでくる。

私が好きな土方歳三の句に

梅の花 壱輪咲ても 梅ハうめ

という句がある。
意に沿わぬ薬の行商をしながらもんもんとしていた若者・歳三の密かな自己主張と気概が秘められているようで、その気持ち大事にしてあげたいなあと感じさせる句だ。
土方歳三の句は、平凡な句が多いと言われるが、自然や日常を詠んだ等身大の句で私は大好きだ。
20代の若者ともなれば、ちょっと背伸びして志だの大義だの忠国だのを高らかに歌に詠みこもうとするだろうが、歳三は、梅や牡丹、なずなを読み、雨や雪の日のおもしらさを読んでいる。「志や大義や武士道は、言葉であらわすもんじゃねえや、行動で見せるもんだぜ」と、心の奥でそう思いながら、風情の句を詠んでいくのも歳三ならではの「粋」なのだろう。


たたんでいた綸子の訪問着は梅が描かれている。肩と裾にびっしりと白梅が咲き乱れている。袖や裾には、絞りで雲形。
ずいぶん昔、母から買ってもらった着物。母は、満開の桜の着物を買ってあげたと思っているが、実は、これが梅だった。桜なら4月くらいまで着れるのだが、梅なので、新年から2月までしか着られない。それで、なかなか着る機会に恵まれなかった着物。

この着物にびっしりと咲き乱れる梅は、まさしく「人の世の ものとハ見へす 梅の花」だ。
名づけて「歳三の白梅」にしよう。これで、毎年1,2月のおよばれやパーティが待ち遠しくなる。



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佐々木只三郎の鎖帷子が出てきたらしい
、「佐々木只三郎の鎖かたびら発見 京都で10月に公開 戊辰戦争で着用か」という記事が京都新聞電子版(6月15日)にでていた。

内容をかいつまんでみると、
只三郎が戊辰戦争で着ていたと見られる、佐々木家の家紋入りの鎖帷子が発見された。
亀山市の民家に保存されていたものらしい。
この鎖帷子は、麻布で覆われた冬用で、佐々木家の家紋ひし形の「四つ目結」が紺で染め抜かれている。弾痕を縫い直した跡が多数あるほか、右脇腹に血痕、左肩に刀で切られたとみられる裂け目が残っている。
(京都新聞記事抜粋)とのこと。
写真も掲載されていたが、右わき腹の血痕のようなものが生々しくみえる、
すごいものが見つかったなあ。

佐々木只三郎は、鳥羽伏見の戦いの中、1月6日、八幡堤で右わき腹に被弾し、部下と一緒に紀州に落ち延びたが、その傷のために死亡したらしい。
小太刀を執らせると敵なしと言われた剣客であった只三郎。鳥羽伏見の戦いの最中も、甲冑を脱いで斬り込んでいた只三郎は、近所の酒屋に飛び込んで酒を所望し、そのお礼として襖に和歌を書き付けたという。

「世はなべてうつろふ霜にときめきぬ こころづくしのしら菊のはな」

戦さの最中に詠んだ歌とは思えないほど、美しい歌。
(個人的には、幕末維新の人々の和歌の中で、一番すばらしいと思っているのだが…。)
結局、この和歌が彼の辞世になる。

この和歌が書かれた襖は、昨年秋、霊山歴史館で催された「「龍馬をめぐる人々」展の中で展示されていた。戦場にあって、落ち着いて書く暇もなかっただろうから、一気に書き飛ばしたような乱れや勢いの激しい文字だったが、やはり上手かった。しばらく、その前で動けなくなるほどだった。この時の展示のなかで、龍馬のものより、この襖と、同じく只三郎の筆による条福が一番印象的だった。それほど、歌も書も優れていた人だったのだ。

今回見つかった鎖帷子は、霊山歴史館の秋の企画展で公開されるらしい。
そのとき、おそらく辞世が書かれた襖も再展示されるのではないだろうか。

血に染まった鎖帷子と襖2枚に書かれた和歌。
佐々木只三郎の壮絶な最期を見せ付けられるような展示になることは間違いなさそうだ。

ああ、秋にはぜひとも京都に行かねばなるまい。
そういえば、着物仲間と京都行きの企画があったぞ。この企画実現させなければ。



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「幕末の桑名」 重工業と金融業の基礎を築いた新選組隊士たちがいた。
「幕末の桑名 ~近代ニッポンの基礎を築いた桑名のサムライたち」
               バーバラ寺岡/著 桑名市教育委員会 ・新人物往来社/出版

以前のコラム『「三菱長崎造船所」初代所長は新選組隊士だった』でも書いた箱舘新選組隊士・大河内太郎こと山脇隼太郎正勝をはじめ、戊辰戦争を藩主・松平容敬公といっしょに「賊軍」として戦い抜いた桑名藩士たちの生涯を追った一冊。

山脇正勝のひ孫であるバーバラ寺岡さんの家に受け継がれた初公開の資料がベースになっているようだが、写真も多く、資料の原本にも強く惹かれる。

私も、山脇正勝が初代所長を勤めた事業所の広報マンをやっていたので、山脇正勝には格別な興味がわく。初代所長の写真はなかなかハンサムだったこと。戊辰戦争を戦ったこと、その戦さで小指をなくしたことなどは、知っていたが、まさか「賊軍」それも新選組隊士であったとは夢にも思わなかった。明治も17年になっていたとはいえ、土佐藩士岩崎弥太郎が社長の会社の重役が元新選組隊士とは、だれが想像できただろう。ましてその勤務地が長崎なのだ。

この本の表紙に掲載されている若者の集合写真。左端が山脇正勝。刀に添えた左手の小指が欠けている。
右から2人目も元新選組隊士神戸四郎こと高木剛次郎(貞作)。この二人は土方が率いた箱舘新選組で最後まで戦い抜いて弁天台場で捕虜となり、解放後、アメリカに渡ってビジネススクールに学んだ。帰国後、山脇は「三菱」で重工業の基礎をつくり、高木は「三井」で金融業の重鎮にまでなっている。
山脇と高木の間に座る白い着物の若者は立見鑑三郎。のち、乃木大将より優れた陸軍大将だといわれた立見尚文だが、新選組ファン、特に土方ファンには、幕府脱走軍で土方の指揮下で戦った桑名藩士の名前として記憶されている人だ。明治政府陸軍で頭角を現す立見の戦さ上手は、土方の影響が大きいのではないだろうか。少なくとも、一緒に戦った土方の峻烈さは記憶に残っていただろう。

この3人は容敬公の小姓で、写真に写った明治3年ごろにはまだ22,3歳。土方より15歳近く若い。土方も当時としては近代的な顔をしているが、山脇正勝はもっと現代人に近いハンサムだ。

山脇正勝の興味深いエピソードは
・洋行帰りのスマートな外見を持っているが、中味は武士のまま。娘たちの名前にその性質が現れている。崎子、瓊子(たまこ)、哲子、勝子。てつ、たま、かつ…なんともかわいげのない名前だこと。
・高島炭鉱の社長も兼任していたが、荒くれ者の炭鉱夫たちに慕われていたらしく、正勝が経営していた15年間が高島炭鉱は労使がまとまり、もっとも業績を上げていた。
・部下には「酒はいくら飲んでもいいが、仕事はがんばってやれ」と言っていたらしい。上記の高島炭鉱の話やこの言葉を見ると、なんとなく箱舘での土方が連想される。
・三菱長崎造船所資料館には、当時では珍しかった複式簿記の会計簿が展示されているが、これもアメリカで学んだ山脇の考えだろうか。もしかすると、いっしょに渡航しビジネススクールで会計学を身につけたもう一人の元新選組隊士・高木貞作がアドバイスしたものかもしれない。

そのほかにも、仙台で蝦夷地に渡る決意をした容敬公は髪を切り、銃を抱えて兵卒姿になったこと、藩主とともに蝦夷にいけなくなった桑名藩士に「新選組に入れば同行を確約する」と土方が助言したことなどは、土方ファンには有名なエピソード。

明治に名を残した実業家や軍人たちのエピソードの中に、土方歳三の名前が登場すると、彼が間違いなくつい130年ほど前に生きていた人であり、新選組が間違いなく存在したことを再確認する。

それにしても、近代の扉をこじ開けたのは薩長だろうが、彼らが近代を作ったわけではないことがこの賊軍・桑名藩士たちのその後の生き方でも知ることができる。旧幕府や藩の人材の豊かさ、人格の高さを改めて知らされることになった。

幕末ファン、新選組ファンにはぜひ読んでもらいたい本。



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5月30日は沖田総司の命日だった
今朝のドイツ戦(サッカー日本代表)にそなえて、昨夜は早寝した。
おかげで、早朝4時30分に起床。清々しい気持ちでTVの前で観戦できた。

昨日は映画「ダビンチ・コード」も観ていたので、あまり重いことを考えたくなかったが、5月30日という日付けには思い入れがある。

慶応4年(1868)5月30日、沖田総司が亡くなっている。
新暦に直すと7月中旬になる。まだ梅雨もあけないじめついた季節に独り病の床で息を引き取った。
心から慕っていた師・近藤勇は、すでにこの世にいない。それでも沖田には近藤処刑のことは知らされてないので病床でも「先生はどうしていらっしゃるのでしょう」と言っていたらしい。

天才剣士といわれ、剣技に生きてきた沖田総司が、そのアイデンティティでもある剣を使うこともかなわない体となって独り隠れるように病床にあるなんてどんなに心細かっただろうか、口惜しかくてたまらなかったろう。
沖田総司のこととなると、やはり一番心に残るのはその死に際だ。
この人こそ戦場で奮戦して倒れて欲しかった。本人も一番望んでいたことだろう。
近藤や土方と一緒に着いて行きたかっただろうが、足手まといになることを案じてその言葉を口に出さなかったのだろう。最後の最後まで「わがまま」を言わない子のままだったのだなあ。
幼年時代から近藤の道場の内弟子として、先代や近藤に仕え、従順に従ってきたこの若者からみれば、土方などは、本当に好き勝手やっている幸せ者に見えたことだろう。それでも従順に師である近藤勇につき従って剣をふるい、挙句の果て病魔にむしばまれてしまった。せめて、最後の最後に「いっしょに連れて行って」とわがままを言って師や先輩を困らせてもいいものを。
沖田のものわかりのよさが、かえって悲しい。
沖田総司の最後が書かれている本を読むと、どうしても夜眠れなくなる。
そんなこともあって沖田総司のことは土方ほど一生懸命追いかけていない。
史料が少ないためか、女性向けのイメージに変貌させられている沖田総司がどうも私のイメージとは違うというのも沖田を遠ざけていると思う。私が持つ沖田総司のイメージに一番近いのは映画「壬生義士伝」で堺雅人が演じた沖田総司だ。

沖田を一番実感しやすいものとして彼の手紙がある。新人物往来社から出ていた「土方歳三・沖田総司全書簡集」に沖田の手紙が納められている。しっかりとした字を書く人だ。土方のくせのある女性っぽい字に比べると格調ある字だと思う。彼の書簡を読んでいると、この人も多摩に帰りたかったのだと思わされる。それなのに、帰っていない。帰るチャンスはあったのに、土方や近藤からお前の力が必要といわれて、そのチャンスもあきらめている。

本当に思い残すことがたくさんあったことだろう。
なにより、健康で戦いの場にいきたかっただろう。

27歳で病没した沖田総司。
ジーコジャパンの平均年齢がだいたいそれくらいだろう。
それを思うと、やはり早すぎる死であり、くやしさに満ちた死だと思えて成らない。

そういえば、沖田をかくまった千駄ヶ谷だったか今戸だったかの植木屋さん。女優の江波京子さんのご先祖。「土方歳三波濤録」(釣洋一著)だったかに、そのようなルポがあった。

沖田総司の生い立ちや周辺については、日野宿本陣検討会のMUNNさんの記事などを見ていると、地元で史料の発掘や読み解きなどがなされているようだ


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長崎微熱  http://50s.upper.jp

 

 

製作・著作:平野惠子
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