歴史コラム・長崎の幕末・明治

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「東京新大橋雨中図」文明開化に江戸を描いた元幕臣の半生

「東京新大橋雨中図」  杉本章子著  文春文庫

何度も読みたくなる本というのがある。
私の場合、それは土方歳三に関する本と、江戸・明治の浮世絵師に関する本が多い。

先日、やっと再び「東京新大橋雨中図」(杉本章子著)を手にすることができた。
この作品は1988年 第100回直木賞を受賞している。 初版のハードカバーは新人物往来社から発行されていた。

発行当時読んだときには、それほど強い印象はなかったが、小林清親の「光線画」という作風がどんなものかだけ気になっていた。
その後、場所は覚えていないが美術館でひょっこりと「東京新大橋雨中図」に出会った。そこで、帰宅してから本を探したが見つからず、必死で古本屋を駆け巡って手に入れた本が、実は自分が売った本だった!という変なめぐり合わせがあった。
その本もいつのまにかどこかに行ってしまったようなので、また古本屋で探していたが、すでに絶版になっているのか、なかなか手にいらなかったが、やっと先月文庫本を手に入れて、またまた読み終えた。

読み終えて思うのだが、やはり何度でも読みたくなるいい作品だ。

「光線画」といいう作風で明治の市井で好評だった最後の木版浮世絵師・小林清親の半生を描いた物語。
新しい時代がもたらす躍動感のなかに色濃く残る江戸情緒。「光線画」の持っている独特の空気感が著者の文章の魅力と合致していて、より陰影を深めていると思う。

幕府瓦解という大きな変遷に飲み込まれた幕臣小林清親が、苦しい駿府での生活から絵師への道を求めてなつかしい江戸に帰ってくる。江戸は東京と名前を変えて新しい都市になろうとしている。しかし人々の心に残る江戸への郷愁。江戸を想い、恋心を馳せた人を想う清親の「想い」が「光線画」となって世に出てくる。
幕臣時代から絵師としての生業も持っていた小林清親だから、他の幕臣たちにくらべるとずっと幸運な転身ができたと思えるのだが、それでも、今では幻想でしかない「武家」に見切りをつけることがどれほど大変なことか、想像に余りある。

つい、何も語らず市井の隅で土方の戒名を抱いて生きていった島田魁や、斗南で人間以下の生活に耐えて過去を語らずに前を向いて生き続けた斉藤一、生まれ故郷に暮らすことなくと別の地で商人になりながら仲間の絵姿を残した中島登、北海道で終生剣客魂をもって生きた永倉新八など、新選組の生き残りたちの明治の生き方に思いを馳せてしまう。

浮世絵好きにとっては、月岡芳年、河鍋暁斎、井上安治、落合芳幾それに下岡蓮杖など、おなじみの絵師や写真師などが登場するのもうれしい。彼らもそれぞれに時代のうねりの中に飲み込まれもがき浮き上がってきた人たちなのだろう。絵師たちのつながりに江戸の心意気が感じられて爽やかな気分になる。

小林清親の「東京新大橋雨中図」「新橋ステンション夕景」など本書のタイトルや小見出しになっている絵のいくつかはは静岡県立美術館のホームページで見ることができる。
また清親の弟子・井上安治の「光線画」は東京ガスのミュージアムにも展示されているらしく、ホームページで見ることができる。

本書の読後感覚めやらぬうちに二人の作品を見て、しばし、文明開化の中で息づく江戸情緒に浸った。

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戦船(いくさぶね)の幕末維新史=軍艦「甲鉄」始末

軍艦「甲鉄」始末  
中村彰彦  新人物往来社

「甲鉄」艦とは、幕末期、幕府がアメリカから買い付けた鋼鉄製の中古軍艦「ストーンウォール」号のこと。維新新政府に引き渡されてから「甲鉄」と呼ばれ、旧幕府軍討伐戦を勝利に道びき、明治海軍発足で「東」と呼ばれる事になる。
この本は、諸外国の陰を感じながらも平和であった島国が、黒船来航で外国の圧力と直面し、大きく揺れ動いていく流れを軍艦「甲鉄」の生涯を追うことで明らかにした戦船(いくさぶね)の幕末維新史。


幕末ファンにとって「ストーンウォール」という名前は特別の意味をもつ。特に旧幕府軍に興味や思い入れを持っている私には「ストーンウォール」は得体の知れない脅威の塊というイメージだった。
「ストーンウォール」の実像が見たい、実態が知りたいと思っていながら、今日までその艦影すら見たことがなかった。本誌に掲載されている写真で初めてその姿を見て愕然としたと同時に宮古沖海戦の作戦失敗の理由も理解しやすかった。
ものすごく独特の船型をしている。
普通、船の形は上底が下底より長い逆さまの台形なのだが、船全体が鋼製のこの船はなんだか平べったくどちらかというと普通の台形に近い姿をしている。喫水下がどのようになっているのかとても興味が沸いてくる姿だ。こんなに平べったい船だったから、宮古沖で野村利三郎たちは飛び移るのではなく、飛び降りなければいけなかったのだ。この異様な形の船が戊辰戦争の戦局を決定付けた。

前にも書いたが、私は宮古沖や箱舘の戦い時にこの「甲鉄」を操船していたのはだれだったのか?もしや、アメリカから回航してきた水夫たちが操船していたのではないのか?という疑問があった。
この疑問については、艦長名など確認できたが、機関長や現場の操舵員や水夫たちのことまでは書かれていなかった。

しかし、それにもましておもしろいことを知った。
アメリカから回航中のストーンウォールには2人の日本人が乗っていたのだ。幕府海軍方軍艦組一等 小笠原賢蔵と同 岩田平作。
この2人は幕府が軍艦買い付けの役割でにアメリカに送った使節団のメンバーで、買い付け組が帰国したのちもアメリカに残ってストーンウォールを受け取り乗船して日本に戻ってきたのだが、彼らが日本に着いたのは慶応4年4月。すでに幕府は瓦解していた。

ストーンウォールを一番良く知るこの2人はその後どうしたか?

小笠原賢蔵の名前は宮古沖海戦に出てくる。
幕府海軍方だった小笠原は榎本軍に合流し箱舘まで行っていたのだ。彼にしてみれば自分が持ってきた船を横取りされたようなものだろう。横取りされたのなら取り返してやる!という意気込みだったろう。「ストーンウォール」のことを一番よく知っている小笠原はアボルタージュが成功したら分捕った「ストーンウォール」の艦長になるはずだった。しかし彼が乗り組んだ「高雄」はアボルタージュに遅れてしまい、さらに漂流して上陸し乗組員は捕虜になってしまう。
もう一人の浦賀与力で長崎海軍伝習所の第一期生という経歴を持つ岩田平作のその後は本書には書かれていないが、どうも病床にあったようだ。

箱舘での海戦の様子も詳しく書かれているが、「回天」と「蟠龍」の奮戦はものすごい。もう捨て身の戦いで、最後にはどちらも動かなくなり新政府軍に火をつけられる。つくづく箱舘戦争の蝦夷共和国軍の奮戦は最後のサムライたちの意地の戦いだったのだと思い知らされる。

明治新政府の海軍のエースとなった「東」艦だが、西南戦争ころには、エースの座を新しい船たちに譲り、明治22年には標的艦として最後のお勤めをまっとうしてその生涯を終えている。
ここでまた小さな因縁を見つけてしまった。
「東」艦と一緒に廃船リストに上がった船に「雷電」という一番古い船があるのだが、実はこれは「蟠龍」なのだ。燃え残った「蟠龍」を大修理し「雷電」と名前を変えて政府に売りつけられた船。「雷電」は民間に払い下げられ捕鯨船になり、明治30年に解体された。
「ストーンウォール」に最後まで戦いを挑んでぼろぼろになった「蟠龍」が「ストーンウォール」と同じ海軍で働き「ストーンウォール」よりも長生きした。あっぱれ!と拍手したくなる。

最後に、「宮古湾春景」と題されたカバー写真の美しさをほめたい。ドラマを予感させる写真だ。


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国芳は多摩の歳三たちには手塚治虫だったかも

正月最大のイベント「土方歳三最期の一日」の感想を書く暇もなく、怒涛のごとく正月のイベントが続いた。

 「歌川国芳 武者絵・戯画展」を見に行くことも「土方最期の日」並に私にとっては大事なイベントだったが、昨日、寒さのなか小倉まで行って来た。
国芳の戯画、武者絵だけをセレクトして150点ほど展示してあった。
「武者絵の国芳」と呼ばれるきっかけともなった「通俗水滸伝豪傑百八之一個」シリーズをかなりまとめて観られた。解剖学者をうならせたという大骸骨で有名な「相馬の古内裏」や源頼光と四天王シリーズ、太平記シリーズ、川中島、そしてこれも有名な「八犬伝」の犬塚信乃、犬飼見八の対決などもうわくわくするような武者絵の数々。ただ、誠忠義士傳シリーズがなかったのは寂しかった。(これは役者絵にはいるのかなあ?)
戯画も、あの有名な「みかけはこはいがとんだいい人だ」から始まって、国芳お得意の擬人化した猫や蝙蝠や金魚たち、さらに道具類まで手足がついておどけている。何時見ても楽しい。
一人で行ったのがくやしい。国芳の戯画は、最低二人で見るものだ。しゃれの風刺やとんだおとぼけを画面から見つけてわいわい楽しむ絵なんだから。

その意味では、企画した北九州私立美術館分館の展示はいただけない。
作品保護のためだと分かるのだが、やはり照明が暗すぎる。(錦絵関連で言えば浮世絵専門の美術館である原宿の「太田浮世絵美術館」の照明はもっと明るい。参考にして欲しかった)展示の仕方も平凡。なにより、「芸術は静かに見ろ!」と言わんばかりの雰囲気作りには、驚いた。これが宗教画ならそれも必要だろうが、庶民のための錦絵、それも粋でいなせな江戸っ子中の江戸っ子といわれる「国芳展」。これを芸術鑑賞気分で見せられた日には国芳ならずとも「野暮だねえ」と言いたくなる物だ。ああ、九州の芋にゃあ「国芳」はわからねえさ。と言われそう。これが一番恥かしいなあ。

「ほぼ日」の「新選組!!のための年表」に「歌川国芳死去」という表記がある。この年、大河新選組!では「四代目襲名」。国芳が活躍した時期は、近藤、土方は、ティーンエイジャーから20歳代か。多摩の少年たちには、「武者絵なら国芳」といわれて大人気だった国芳の水滸伝の豪傑絵や義士傳の侍たちの絵をわくわくしながら見ていたのかもしれない。
国芳は、当時の若者たちにとって、今の少年漫画みたいなものだったのかも。絶対に土方たちは見ていたはずだ。

他所様の国芳をほめていたら、私んちにある国芳の錦絵たちも時には陽の目を見せてくれとせがんでいる。額装しても飾る場所がないので、普通はしまいこんでいるのだが、お披露目しようかな。


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郷土史への興味は新選組から…と、言ってしまった(汗)

こちらの歴史文化協会で「長崎と会津の接点」というお話をさせてもらった。
ほとんどが自分より年上、多くは50歳以上の方々、それも地方史研究家だったり、長崎学のオーソリティがいたりで、本当に私がお話していいの?と、恐れ多かったのですが、皆さんの前に立ってしまえは話すしかありません。

仕事柄プレゼン慣れしていますから、臆することはないのですが、つかみをどうするかで、やはりこれしかないと、言ってしまいました。
「実は、私が会津と長崎の接点に興味を持ったきっかけは、新選組です。長崎にいて新選組なんてと思われるかもしれませんが、土方歳三のハンサム写真がきっかけです」(ドキドキ)
皆さんからフワッとした笑いが起こりました。
昨年の大河のことにふれ、「来年の正月には土方歳三最期の一日が放映されるそうです」というと、何人もの方が知っていますよ、私も見ますよといわんばかりの笑顔でうなづいて下さいました。その多くは女性の方々。大河「新選組!」は、龍馬ファン、薩長肩入れの人が多い長崎の地でも、なかなか好意的に見られていたようですし、続編も楽しみにしていらっしゃるようでした。なんだか、あたたかい気持ちに包まれたようで、その後の話がとても楽になりました。
おかげで無事、話を終えることができました。

テーマとしても珍しかったらしく、おおむね好評で、ホットしました。
数人の方から、テーマに関する新しい情報をいただきました。
全国歴史研究会の特別顧問をされている方から「新選組フリークなら釣洋一氏を知っていますか」と聞かれましたので、「もちろん、特に、釣氏の「土方歳三波濤録」は調査を始められた時から待ちに待った本で愛読書です」と答えると、「新選組に関する資料などがありますから、あげますよ」と言われ、ここに連絡してくださいと名刺をいただきました。
さっそく、近くご連絡してお話を伺うつもり。

本当に気持ちのいい収穫の一日でした。
なにより、わが町に「大河新選組!」のシニアファンがたくさんいたことがうれしい。

歴史を真摯に学ぼうとする人たちは、かたくなな思い込みや入れ込みがなく、ニュートラルな視点で物事を見ているのだということを今更ながら知らされました。
シニアの研究者たちの懐は深くて広い。さすがです。


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明日は長崎歴史文化協会でプチ講義

なにがきっかけで人生変わるかわからない。
幕末、長崎から奥州に出兵した長崎振遠隊について教えを請うために長崎歴史文化協会をのぞいたのはいつだっただろう。
先日、久しぶりに協会のトップ、郷土史家の越中哲也先生にお会いしたので、先生の先祖すじにあたる足立家とは、会津御用達ですか?とお聞きしたことから、私の会津熱に話が及んだ。
(越中先生の先祖の足立家は、残念ながら私が探していた会津藩御用達の「田辺屋」足立家ではなく、柳川藩御用達だった両替商「海老屋」の足立家だった。)

「なせ、会津に興味が沸くのか?」地元であう人ごとに質問される。
長崎にあっては、龍馬や海援隊、薩摩長州肥前鍋嶋などへの興味ならともかく、縁も縁もない会津に興味を持つわけが理解できないらしい。
答えれば簡単なことで、幕末の日本で最も筋を通した生き方をしたのは松平容保公ではないかと思っているからであり、その清廉潔白な人柄に頭がさがるからだ。
でもここに話を持っていくには、新選組という入り口を話さなければならない。土方の写真というミーハーな入り口から入った新選組への興味を人に語るのはちょっと気恥ずかしい。
でも、明日は、その入り口から話さなければならないだろうなあ。
高齢な歴史ファンや郷土史研究の人々を前に「私の幕末史研究のきっかけは新選組です」というのは勇気がいるぞ。
もし、新選組は朝敵だという人がいたら、どうしよう。そうでないということを理解してもらうのに私の講義の時間を全部使ってしまいそうだ。そんな質問がきませんように。

講義の組み立ては、お菓子「会津葵」の栞に書かれた足立仁十郎について。足立家の急速な没落の背景。幕末明治に長崎を訪れた人々。無名の会津人を墓碑から探す。など。

すこし不安ではあるが、どのような感想が聞けるのか楽しみでもある


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久しぶりの霊山。佐々木只三郎の書と会う

所用の帰り、京都乗換えだったので、霊山歴史館に立ち寄った。リニューアル後初めて。
20日は坂本龍馬生誕170年記念の霊山歴史館秋季特別展「龍馬とめぐる人々」の最終日だった。
まず、おみくじ気分で入り口のガチャポンを!出てきたのは原田左之助ピンバッジ。中吉でしょう。
龍馬ファンの友人から頼まれていた龍馬の切手セット人物編3000円也を2セット購入。限定の絵葉書いり。ちなみに人物編は西郷隆盛、武市瑞山、龍馬、勝海舟、松平春嶽、後藤象二郎、中岡慎太郎(笑顔のほう)海援隊と土佐藩士、桂小五郎、高杉晋作の写真や肖像画をバックに龍馬のバストショットの肖像が重ねてある。切手のデザインは決してよくないのでちょっとがっかり。豪華な台紙には乙女姉さんに宛てた龍馬の手紙だ。

展示物は平凡だったが、心引かれたのは佐々木只三郎の書1幅と1双。
1幅は、龍馬を斬った桂早之助に送った和歌。条幅。
すばらしい。私にはこれまでに見てきた幕末維新の人々の書のなかで一番感動した文字だった。達筆だし、勢いがあるし、バランスがいいうえに、高潔といってもいいくらい清々しい。潔癖なのに華やぎがあるのがたまらないなあ。これを見ることができただけでも、この日、霊山歴史館に行った価値がある。
もう1つの屏風仕立ての書は、彼の絶筆。鳥羽伏見で受傷して担ぎ込まれた農家にお礼に書き残したものらしい。前の和歌のような繊細な美しさはないが、最期の力をこめたような力強さ。それでも乱れがない。これもすごい。
なんだか、佐々木只三郎をもっと知りたくなってしまった。こんな男を育てた会津とはどんなところだったのか。またまた会津に惹かれていく。

霊山に行っていつも思うのだが、ここは幕末維新やその後の戦争で国のために戦死した人の墓所があり、それを祭る護国神社があるところだ。国のためとはいっても靖国神社同様、天皇家を国とするため、その逆賊とされている幕府側の戦死者は顕彰されていない。そんな墓所が見下ろすような霊山歴史館で、新選組展があるのも不思議なものだ。あの墓所には、池田屋で闘死した宮部鼎蔵、北添桔磨、望月亀弥、大高又次郎、松田重助たちの墓もあったと思う。墓の中の人も、展示される人も複雑だろう。土方が拷問にかけた古高俊太郎の墓も霊山の墓所にある。歴史館でも人気アイテムの土方を古高の霊はどんな気持ちで見ているのだろうか。たかだか百数十年前のこと、まだまだ人間臭い感情が湧いてきても不思議ではないなあと、つい墓所の方を見上げてしまう。
じつは、新選組関連グッズを持っているときは墓所には回らないことにしている。なんとなくだけど自然とそんな気持ちになるところ。

その後、久しぶりに壬生のほうに足を伸ばした。
昨日の京都は、もう観光客がいっぱい。霊山がある東山界隈はお正月のような人出だったが、壬生はそれほど人はいない。それでも大河「新選組!」が放映される前よりは多かった。時間がなかったので、とにかく光縁寺で山南さんはじめ隊士の墓参りだけさせてもらった。


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杉浦日向子さんと「百日紅」

杉浦日向子さんが亡くなった。
著名人の訃報は毎日のようにTVやネットで流れてくるが、杉浦さんの早すぎるともいえる訃報は正直ショックで悲しみは大きい。

ぽっちゃりとしたお顔でおきゃんな色気のある着物姿の杉浦さんが、江戸の日常を細やかに解説してくれるNHKの「お江戸でござる」は、木曜日の楽しみだった。同時に、杉浦さんの着物が楽しめるというおまけまであった。「お江戸でござる」が「道中でござる」に変わり、杉浦さんが登場しなくなってからは、あまり見ていない。振り返れば、そのころ発病されたのだろうか。

彼女の作品にであったのは、いつごろだろう。そんなに昔ではない。ミステリーに飽きて、シンプルな捕物帳を再認識してみようと古本屋を探し回っていた頃だから、10年ちょっと前だろう。古本屋で出会った。
手元にある記念すべき出逢いの1冊「ゑひもせすー杉浦日向子作品集」は1983年のものだ。この中にある「本朝大義考 吉良供養」に少なからずショックを受けた。「本朝大義考 吉良供養」は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを吉良邸の側から描いたもので、夜襲をかけられた側の無念さに溢れたマンガルポのようなもの。杉浦さんの江戸っ子魂が書かせたものだろう。その後彰義隊の無念をを描いた「合葬」にも出会った。
93年には、漫画家を引退されたので、その後は、時折エッセイなどを読ませてもらったが、私にとってはやはり江戸の粋を見せてくれる当世女浮世絵師という風情の漫画家杉浦さんが好きだった。

昨年は文庫本になった「百日紅」を見つけて、久しぶりに杉浦さんが描く江戸に浸ったものだ。北斎父娘と居候の絵師善次郎(後の英泉)の周辺を描いた「百日紅」は、私の大好きな浮世絵師たちが主人公。まだ前髪立てで見習いの月岡芳年を見ると、もうすぐそこに明治が来ているんだと感慨深い。(月岡芳年は、新選組ファンにはおなじみの「勝沼駅近藤勇驍勇之図」の作者大蘇芳年のこと。)

江戸情緒を楽しませてくれた杉浦日向子さんのご冥福をお祈りしつつ、毎度の発言だがこの「百日紅」をNHKの金曜時代劇でドラマ化してくれることを更に更に期待したい。
(ついでながら、そのときは善次郎を山本耕史でお願いしたい。…;:)


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刀剣にまつわる森雅裕の3作品

「会津斬鉄風」   森雅裕 集英社(1996年初版)
「鉄の花を挿す者」 森雅裕 講談社(1995年初版)
「鐡のある風景〜日本刀をいつくしむ男たち〜」  森雅裕 平凡社(2000年初版)


「会津斬鉄風」 
もう何度この本を読んだだろうか。幕末を側面から浮き彫りにするようなユニークで質の高い物語を読みたくなったら、ついこの本を読み返している。
今回も、近く、土方歳三資料館にある和泉守兼定作刀を見ることになっているので、刀剣についての側面的な情報が欲しくて、すでに読んだことのある刀剣にからむ本から数冊読み返した。そして、その最初はやはり、この本から始めていた。

1つの物語に登場した人物が次の物語の主人公になるというユニークな構成で5つの物語がつらなりながら、舞台は会津から、京都、松前へと移っていくダイナミックな連鎖小説。

最初の物語「会津斬鉄風」は、会津に滞在中の漂白の金工・河野春明が古川友弥と名乗る若者に春明作と言われる鍔の真贋の鑑定を頼まれることからひも解かれる春明の過去と職人魂。
「妖刀愁訴」では、刀鍛冶の古川友弥は、十一代和泉守兼定となって藩主の京都守護職拝命に同行し京にいた。彼の打つ刀は祟るという噂が流れ、事件が起きる。渦中の人物の過去の確認を会津で謹慎中の佐川官兵衛に託す。
「風色流光」:翌年、京都に出てきた官兵衛は鴨川近くで、包丁を持った女に襲われた…。女の誤解をとき、背後の陰謀を探る官兵衛に協力する沖田総司や新選組。
「開戦前夜」:新選組にいる夫に会うために、下田から出てきた身重の女の面倒をみることになった吉という女。たずねた伏見奉行所で、土方歳三とあう。時はまさに鳥羽伏見の戦いの火ぶたが斬って落とされた。
「北の秘宝」:時は明治元年、松前城を落とした土方歳三は、藩ゆかりの女からある品を探して引き渡して欲しいと懇願される。そのお宝とは…。

それぞれの物語の中にたくみに史実が織り込まれているのだが、人物描写が魅力的であり、背景や交錯する事件が複雑に入り乱れるので読み応えのある物語になっている。
ほんの数シーン登場するだけの沖田でさえ、彼の人柄や魅力が際立つという人物描写には驚かされる。


「鉄の花を挿す者」は、現代の刀鍛冶が主人公のミステリー。若いのに頑固で人とかかわると関係がささくれ立つような主人公だが、職人の矜持のようなものに筋がとおっていて、かろうじてラストまで好感がもてた。作刀の現場や、刀の基礎的な知識、現代刀鍛冶の立場や、第2次大戦中の軍刀のいきさつなども書き込まれていて、興味深い作品。

「鐡のある風景〜日本刀をいつくしむ男たち〜」は、刀剣の魅力に取り付かれているような作者の、刀剣にまつわるルポルタージュ。
森氏は、やっと手に入れた12代和泉守兼定作の刀剣を土方歳三の愛刀と同じ拵えにしたくて、土方邸を訪問したりもしている。なみなみならない思い入れと、思うようにいかないじれったさがざわざわと湧き上がってくる熱いルポや、現代にあって刀剣に関わる人の人柄や考え方など、興味深く読める。

3作とも、森雅裕氏の刀剣にたいする並々ならぬ思い入れと憧れが創った作品だといえる。 
人嫌いのような森雅裕氏。次作の「化粧槍とんば斬り」以来、作品が出ていない。好きな作家さんなだけに、今もあきらめきれず次作を待っている。


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新田次郎文学賞決定。会津の魂の人 「落花は枝に還らずともー会津藩士・秋月悌次郎」

落花は枝に還らずともー会津藩士・秋月悌次郎』 (上下) 中村彰彦 著 中央公論新社

4/8の毎日新聞によると、この本が第24回新田次郎文学賞に選ばれたらしい。中村彰彦作品のファンとしては、うれしいニュースだ。

秋月悌次郎は、幕末の京都で守護職を務めながら時代に翻弄され、逆賊の汚名を一身に集めてしまった会津藩主・松平容保公のそばにあって、公用方を務めた一人だ。はなやかな幕末の歴史のなかでは、地味な脇役でしかない一文官の一生がこんなにも波乱にとみ、静かな感動をくれるとは思ってもみなかった。
そこには、「学問とは人としての道を知るためのもので、およそ人たるものは道義に生きるべきなのだ。」という、秋月が19歳の時に忽然と理解し心に落とし込んだ思想が、どんな境遇にあってもぶれることなく貫かれていた。それが、清々しい感動につながっているのだろう。

著者が語っているように、秋月悌次郎は、文官の最たるものなので、斬った張ったのエピソードが少なく、学問と仕事に対して誠実な人なので、艶っぽい話もでてこない。それでも、時代の変わり目にあった彼の一生は波乱に富んでいる。
会津の武家に生まれた悌次郎は、江戸での14年の遊学で、「日本一の学生」と呼ばれるほど寸暇を惜しんで学問を修め、同時に幅広い人脈を築き上げる。その後、京都守護職となった容保公に従って京都に上り、朝廷や幕府、各藩との折衝や情報収集を行う公用方として活躍し、「八月十八日の政変」にあたっては、薩摩との同盟の根回しをするなど実績をあげていくが、突然、国許に呼び戻され極寒の蝦夷地に左遷される。その彼が京都に呼び戻された時、すでに時流は変わり、会津は朝敵になっている。会津での激しい戦の間も容保公の側にいて、降伏の使者として命がけの交渉にあたり、降伏後も永久謹慎の身でありながら、後進のために命をかけて尽力する。明治5年、やっと許されて東京大学予備門教諭として奉職、その後、熊本の第五高等中学校の教壇に立ち、筋のとおった生き方と誰にでも優しい人柄で生徒からも同僚からも慕われた。五高で同僚となったラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)は、齢を重ねた秋月を神様のような風貌を呈してきたと評している。
戊辰戦争後の秋月の後半生が描かれている下巻の後半は、美しい日本人の魂みるような静かな感動をもたらす。

秋月悌次郎と同じく公用方だった広沢富次郎も、表舞台に返り咲くことなく、清廉潔白な藩主のため、会津の後進のために、信念を持って一生を捧げたような生き方をしている。彼らは返り咲くことはなかったが、彼らが育ててきた後進たちが後の世で確かな花となっていく。
「落花は枝に還らずとも」は、秋月悌次郎を書きながら、会津の信念を書いた本だと思う。

この本で知った驚きのエピソードをいくつかあげてみたい。

●秋月悌次郎は、長崎に来ていた。
 藩命で西国諸藩の視察の途中、安政6年10月、長崎に立ち寄り、西浜町に投宿し、通詞を雇って唐館や出島を視察している。長崎では、後の長岡藩家老となる河井継之助と出会い、一緒に丸山遊郭界隈も視察したが、秋月だけはその後遊郭には足を運ばなかったらしい。
秋月35歳。独身。異性や酒と遊ぶより、珍しいものや新しい知識と出会うほうがずっと楽しい時があることを私だって知っている。
この年、25歳の土方歳三はやっと天然理心流に正式入門。翌年、桜田門外の変。大河ドラマ「新選組!」で、寝起きの悪い歳三のシーンがあったが、そのころの話だ。会津藩公用方がいかに優秀な人材であったかが、改めて知らされる。

●大河ドラマでも紹介された容保公の純緋の陣羽織のエピソードは事実だった。
 大河で、容保公が近藤勇に、自分が身につけている緋色の陣羽織は孝明天皇から下賜された布で作ったものだと話すシーンがあったが、事実、文久3年正月に、初めて参内した容保公は「陣羽織か直垂に作りなおして用いよ」と純緋の衵(あこめ=束帯のときは下襲(したがさね)と単(ひとえ)の間に着る中着)を賜っており、それを陣羽織に仕立てて天覧の馬揃えのときに纏っていた。この純緋の衵が下賜されたという事実は、後に容保公が尊王であり、天皇も容保公に信頼をよせていたということの証となる重要な意味を持ってくる。

●大河「新選組!」ファンの間で人気の広沢様のその後
 会津藩公用方として、大河ドラマでも登場した広沢富次郎は、秋月より2歳年下。戊辰戦争時は故郷会津に帰らず、江戸に残って、藩主容保公の赤心と戦争の愚かさを訴え、単身総督府に乗り込み投獄され、その後、アーネスト・サトウの進言で開放されている。斗南移住後は、施政や開墾の先頭に立ってはげみ、明治政府から官職への要請をうけるが「野にあって国家に尽くす」の信念で、現三沢市に洋式牧場「開き、日本の畜産界に多大な功績を残している。


余談だが、昨年の大河ドラマ「新選組!」のおかげで、この本がより親しみやすく読めた。


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会津の魂を読みつづける

一昨日、森まゆみ著「彰義隊異聞」を買いに本屋に行ったら、その近くに平積みで「落花は枝に還らずとも―会津藩士・秋月悌次郎 (上) (下)」(中村 彰彦 著 中央公論新社 )が出ていた。
3冊さつとも買えば約6000円。ちょっといたい。
残念だが、この日は、目的の「彰義隊異聞」だけにとどめた。「彰義隊異聞」は店頭に1冊しかなかったし。
気になっていたら、いつも訪問する「白牡丹のつぶやき」の白牡丹さんも、「落花は枝に還らずとも―会津藩士・秋月悌次郎 (上) (下)」についてふれていた。

秋月悌次郎は、松平容保公が在京中、公用方をしていた人の1人で、大河ドラマ「新選組!」では、堀部圭亮が演じていた。
大河でも、「お役目半ばで、国許に帰る事になったが残念だ」と途中から姿を消したが、白牡丹さんからの情報では、国許の上司たちに疎まれて蝦夷地に左遷となったらしい。
その後、また京都に戻ってくるが、時遅しで、彼ら公用方の努力もむなしく鳥羽伏見の戦が始まり、会津は賊軍の旗頭にされてしまう。戊辰戦争後、一時投獄されるが、終始、会津の将来を背負う若者たちの教育の礎になったらしい。

その後も教育者となって、熊本の五高に配属されたとき、教師で赴任していたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と出会い、ラフカディオ・ハーンをして、「神のような人」と言わしめたとか。この人のお墓は、東京・青山墓地にあるらしい。

会津公用方といえば、大河ドラマでは、広沢安任(通称は富次郎)が、なにげに女性ファンを集めていたが、広沢富次郎も、戊辰戦争時は故郷会津に帰らず、京や東京にいて明治政府に、藩主容保公の赤心を訴え続け投獄される。
翌年許されると、会津が流配された斗南藩にもどって、原野の開拓などを率先して行ない藩士の救済にあたっている。廃藩後は、そのまま青森で開墾し、洋式牧場をはじめ、日本の畜産界に貢献したらしい。

秋月、広沢をはじめ、戊辰戦争を経て生き残った会津藩士たちは、その後、屈辱と地を這うような困窮の中での生活を強いられるが、藩主と自分たちの清廉潔白を信じ、それを伝えるべく後進を育てるために筆舌しがたい苦労をするが、ぼろぼろになりながらも誇り高く生き抜いていく。
読書日記「乱視でごめん」にも書いたが、戊辰戦争後の会津の苦汁にあって、不屈の精神で生き抜く姿は「獅子の棲む国 」(秋山 香乃 著)に詳しく書かれいて、彼らを翻弄する運命に驚きながらもそれに耐え偲びならが未来を築いていく姿に感動する。(苦境の中で希望を繋ぐ不屈の男たち「獅子の棲む国」を読む )

幕末維新の本を読めば読むほど、まだ行ったことがない会津という地に惹かれる。


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「世界ふしぎ発見」/平松スネル

世界ふしぎ発見」「海を渡れ・・・アメリカで夢見た幻の会津国」は見ごたえがあった。
大河でもこれくらいの鳥羽伏見、戊辰戦争のシーンが欲しかった。とは、いまさら言うまい(とほほ)
内容はブログ「ミーハー道ニ背キ間敷事」の「会津・ふしぎ発見!」に詳しくレポートされているので、省略。

シュネル(スネル)といえば、西のグラバーにならぶ、武器商人として歴史の中にでてくる。
ヘンリーとエドワードのスネル兄弟の会社は、うろおぼえだが、会津のほかにも長岡藩や東北列藩の武器調達もしていたのではなかったかな。
この平松スネルは兄のヘンリースネルのことらしい。(スネル一人説もあるらしいが)


平松スネルと若松コロニーについて、詳しい資料がインターネット上にあった。
今回の番組もベースにしたのではないかと思うくらいくわしい。

新潟県新津市の広報誌「広報にいつ」バックナンバーより
1978年12月1日発行の、「広報にいつ」383号に「カルフォルニアの移民哀話」として掲載されている。
また、その後シリーズとして、1979年も385号に「明治二年五月頃の会津とカリフォルニヤの平松武兵衛」 387号、に「平松武兵衛の妻とおけいの噂」、389号「会津の平松スネルと新潟勝楽寺のスネル」、397号「市島春城の「外人スネル」観」、399号「市島春城の見た新潟のスネル」401号「スネル一人説の生長」、403号「ドイツ人のスネル観(一)」、405号「ドイツ人のスネル観(ニ)」と、興味深い記事が掲載されている。pdfなのでダウンロードできる。翌年は「鶴ヶ城の女たち」という会津シリーズが続く。
いい史料が手に入ったぞ!!

もう1つ、「スネル」と「平松武兵」という言葉で、記憶のなかにひっかる物があった。
がさごそと我が家の新選組関係の書籍箱をさがすと、やはりでてきた!

漫画「陽炎の紋章」松本零士 中央公論社


全4巻らしいが、私がもっているのは、1,2巻のみ。3,4巻を探したが古本屋で購入した当時も手にはいらなかった。(どなたか持っている方、貸してください!)
この本には、メーテルのような平松武兵が登場する。もちろん、土方も重要な人物で登場する。


最初に紹介したみさおさんのサイト名ではないが、土方好きというミーハーからさまざまに発展していく興味。ミーハー道、おそるべし!と自分をほめる。


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長崎微熱  http://50s.upper.jp

 

 

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