龍馬が歩いた長崎

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坂本龍馬が翔けた長崎の道を歩く

○フィールドワークの講師を担当した公民館歴史講座のレジュメ。 フィールドワークの時間は2時間、コースは以下

@上野彦馬撮影局跡
 龍馬が写真を撮ったのはいつだろう?

A若宮神社  亀山焼窯跡
 周辺には料亭「良林亭」(後の自由亭)「藤屋」などがあった。

B亀山社中跡、龍馬のブーツ
 社中跡はもともとなんだったのか?長崎港のほうを眺めてみよう

C皓台寺 小曾根墓所(小曾根英四郎、近藤長次郎)
 小曾根英四郎、近藤長次郎とは?

D銀屋町(上野彦馬の誕生地) E榎津町 清風亭
F土佐商会跡碑  G薩摩藩蔵屋敷跡
H西役所跡
 イカルス号事件のため数回出頭

I小曾根亭跡 海援隊本部
 小曾根家は福井藩御用商人でもあった。
 
J大浦慶宅跡  K福済寺(龍馬の最初の宿舎)L聖福寺(いろは丸事件交渉の場)
M本連寺(勝海舟長崎寓居跡、沢村惣之丞墓)


○龍馬と長崎関連略年表

・龍馬が最初に長崎に来たのは 元治元年(1864)2月23日。勝海舟に随行して。龍馬30歳。
   外国艦隊による長州攻撃慰留工作のため。神戸より「翔鶴丸」で海路佐賀関まで、後、陸路で島原まで
   島原から海路で長崎に入る。宿舎・福済寺。長崎発は4月4日。

 ・慶応元年(1865)5月 「亀山社中」結成 
 ・慶応2年(1866)1月 亀山社中・近藤長次郎が自刃
 ・慶応2年3月 お龍と共に「三邦丸」で長崎に。
 ・慶応2年5月 ユニオン号、ワイルウェフ号に長州藩からの兵糧を積み鹿児島に向け出航
         したが、ワイルウェフ号が五島沖で座礁。池内蔵太、黒木小太郎ら死亡
 ・慶応2年6月 ユニオン号で鹿児島から長崎へ。お龍を小曾根にあずけて、下関へ
 ・慶応3年(1867)1月 下関から長崎へ。この頃、上野彦馬写真場で写真撮影。 
 ・慶応3年4月 亀山社中、土佐商会合併し、小曾根邸で海援隊発足
         いろは丸出航>>瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」と衝突、沈没
 ・慶応3年6月 土佐藩船「夕顔丸」で 後藤象二郎に船中八策を披露
 ・慶応3年8月 長崎入り。その後イカルス号事件審問に関連し再三西役所に出向く。
 ・慶応3年9月18日、ライフル銃1300挺を「震天丸」に積み込み長崎出航
 ・慶応3年11月15日 京都で中岡慎太郎と共に刺客の襲撃を受け死亡。
 ・慶応3年12月中旬 海援隊を中心に皓台寺で慰霊祭を行う。龍馬33歳。

●龍馬は4年間の間に 何回長崎に来たのだろう?

<<坂本龍馬の行動略年表>>
嘉永六年1853 高知→江戸
安政元年1854 江戸→高知
安政三年1856 高知→江戸
安政五年1858 江戸→高知
文久元年1861 高知→丸亀→安芸坊ノ津
文久二年1862 安芸→萩→高知→下関→大坂→江戸→兵庫
文久三年1863 兵庫→京都→大坂→江戸→京都→江戸→大坂→福井→大坂→福井→京都→福井→ 江戸→神戸→江戸
元治元年1864 江戸→大坂→京都→大分→熊本→@長崎(約1ヶ月半)→熊本→大分→大坂→京都→ 江戸→下田→神戸→京都          →神戸→江戸→京都
慶応元年1865 京都→鹿児島→熊本→太宰府→下関→西大寺→京都→周防→三田尻→山口→下関→京都→周防→
          A長崎(数日)→下関→B長崎(数日)→下関→兵庫
慶応二年1866 兵庫→大坂→伏見→大坂→下関→C長崎(1,2日)→鹿児島→霧島→鹿児島→ D長崎(約10日)→五島→
           下関→小倉沖→山口→E長崎(約10日)→鹿児島→
       F長崎(約10日)→下関→G長崎→下関→H長崎 (5ヶ月位の間に数回行き来)
慶応三年1867 長崎→下関→I長崎(約1ヶ月半)→鞆の浦→下関→J長崎(約20日)→下関→
       大坂→京都→兵庫→土佐→下関→K長崎(約1ヶ月)→下関→高知→大坂→ 京都→福井→京都

・長崎入りのルートは、@以外は全て海路。@も大阪から大分までと島原から長崎は海路。
・B時、亀山社中結成。
・CとDの間の霧島行きが日本最初の新婚旅行。
・Dの時からしばらくお龍は小曾根邸に暮らす。
・H 海援隊結成。
・Iから出航は「いろは丸」。鞆の浦までの間で衝突沈没。
・Jからの出航は 土佐藩船「夕顔丸」後藤象二郎に「船中八策」披露

 

<<龍馬関連の場所>>

■亀山社中跡
 幕末には廃窯になっていた亀山焼の作業場や職人の宿舎であった物件が周辺にあった。亀山社中跡もその1つ。
 当時、町内の某家の別荘であったものを龍馬たちが借り受けた。おそらく、小曾根家の斡旋によるものだろう。

■龍馬たちが面会に使った料亭・茶屋など
 ・清風亭…現在の榎津町にあった料亭。慶応3年1月後藤象二郎と会見
 ・料亭「玉川」…慶応3年8月佐々木三四郎、桂小五郎と会見
 ・喜満楼…丸山にあったと思われる。慶応3年岩崎弥太郎たちと
 ・藤屋…伊良林町にあった大料亭。フランス料理も出していた。慶応3年9月佐々木三四郎と面会
 ・内田屋…内田重吉の吉田屋(今の富貴楼)のことか?それとも榎津町の旅館「内田屋」のことか?
      イカルス号事件無罪の祝杯をあげた。
・引田屋(花月)…イカルス号事件無罪の顛末を綴った龍馬の書類の草稿が残っている。

豆知識:
   幕末の頃の長崎の料亭は七十軒あり、東西南北の四組にわかれていた。
   慶応二年奉行所はこれら組員の中より上筑後町迎陽亭杉山村助、西山松森神社境内吉田屋内田重吉
   (後の富貴楼)伊良林藤屋松尾長之助、出来大工町先得楼本庄与吉の四名を御切紙を以て惣代御用を
   仰付けている。


■小曾根邸跡
 現在の万才町、法務局・地方裁判所付近。
 龍馬は亀山の社中でよりも、小曾根邸で活動することが多かった。
 慶応慶応2年6月からしばらく、龍馬の意向でお龍も小曾根邸で暮らしていた。
 慶応3年海援隊結成の会議が小曾根邸で行われ、のち「海援隊」の本拠地となる。


■大浦屋慶屋敷跡
 油屋町の茶貿易商「大浦屋」の主・慶は、龍馬たちのバックアップをしたことでも有名。
 慶応2年8月龍馬は慶の屋敷で後藤象二郎と会っている。
 慶の茶輸出事業はこのころがピークだった。
 
■皓台寺と小曾根家墓所
 龍馬遭難の1ケ月後、海援隊を中心に縁の人々によって皓台寺で龍馬の慰霊祭が行われた。
  皓台寺後山の小曾根家の墓所には、龍馬や亀山社中をの活動をサポートした小曾根英四郎や
  亀山社中同志であった近藤長次郎の墓がある。

■福済寺
 筑後町にある長崎四福寺の1つといわれる黄檗宗の唐寺。戦前の建物は国宝だったが原爆で大破。
 巨大な観音像「万国霊廟長崎観音」が目印。
 龍馬が勝海舟とともに初めて長崎に来た時逗留した寺。

■聖福寺
 玉園町にある長崎四福寺の1つといわれる黄檗宗の唐寺。隠元禅師の高弟木庵の弟子鉄心によって創建された。
 大雄宝殿横にある鬼塀が有名。
 「いろは丸海難審判交渉」の場。交渉の場を長崎にすることで、海援隊側に有利に進んだとも言われている。

■本蓮寺
 筑後町にある日蓮宗の大寺院。広大な敷地を誇るこの寺は、長崎三大寺といわれていたが原爆で全焼。
 キリシタン時代の数少ない遺構・南蛮井戸跡 が残っていたる。
 長崎伝習所時代の勝海舟の宿舎。海援隊士沢村惣之丞の墓がある。


<<龍馬関連の人々>>

■上野彦馬
 天保9年8月27日、長崎市銀屋町(現・古川町)で、御用時計師であり蘭学者の上野俊之丞の4男として誕生。
 文久2年(1862)暮れ、上野家の別荘であり、父俊之丞の化学の実験所でもあった中島川河畔に日本最初の商業写真館
 上野撮影局を開設した。創業当時の撮影料は銀二分。決して安くはなかったが、通訳や商人たちが続々と訪れたという。
 日露戦争が勃発した明治37年5月22日死去。享年66歳。

■小曽根乾堂(1828年〜1885年)
長崎の書家小曽根六郎左衛門の長男。書画や月琴に優れ、その隷書は「天下一」とも称された。江戸で福井藩主松平
春嶽、幕臣勝海舟らの知遇を得て福井藩の御用商人となる。安政六年に外国人居留地小曽根町を浪ノ平海岸に造成.
海援隊士小曽根英四郎の兄であり、社中・海援隊を後援した豪商でもある。 
明治四年、勅命により御璽・国璽を刻字し、外務卿伊達宗城の従って日清修好通商条規を浄書。三条実美の注文印を
刻し、宮中で娘きくと月琴の演奏を行なった。

■小曾根英四郎(1840年〜1890年)
 長崎の書家で豪商でもあった小曽根六郎左衛門の四男として出生。
 勤王の志の篤い人物で、家屋敷を海援隊本部として提供したり、亀山に家を借りる等、海援隊と龍馬に全てを助けた。
 龍馬とは長兄乾堂を通じて知り合ったと推測される。誠実な人柄で龍馬の信頼も厚く、大極丸購入の際には竹中与三郎
 とともに準隊士として購入に尽力している。またダンディーな二枚目だったらしく花柳界で随分とモテたようだ。
 しかし龍馬没後は生きる事に張り合いを失ったのか、商いにも手を出さなくなり、明治25年五月、愛宕町の愛人宅で寂
 しく五十年の生涯を閉じる。

<亀山社中同志>
■近藤長次郎(上杉宗次朗)土佐藩  天保9(1838)-慶応2(1866) 
 生家は土佐藩城下の菓子屋「大里屋」。仲間からは饅頭屋の長次郎と呼ばれていた。幼少の頃から学問を好み秀才の
 誉れ高く、藩に認められて藩士として取り立ててられる。神戸海軍操練所の設立準備から参加し操練所閉鎖後社中に
 参加。
 慶応元年(1865)商才を発揮して長州藩のための最新ライフル、汽船ユニオン号購入を成功させた。(長州は幕府に
 よる経済封鎖を受けていたため)英国留学を画策していた近藤は長州藩からの報酬を私物化しグラバーの船に乗って
 出航を待った。しかし天候不良のため出航が延期され下船したところを社中の仲間に見つかり隊規違反を責められ、
 慶応二年一月十四、自刃した

■池内蔵太(細川左馬之助)土佐藩  天保12(1841)-慶応2(1866)
 土佐では岩崎弥太郎の門に学んだ。文久三年五月、脱藩し五月十日長州藩による外国艦船砲撃に参加。八月には「天
 誅組」に参加したが敗れ、主将の中山忠光卿を護衛して長州に逃れる。その後元治元年七月の「禁門の変」では忠勇
 隊に属して戦うなど歴戦の勇士である。
 龍馬とは幼なじみで家も近かった。龍馬は内蔵太をかわいがり、家族宛に其の消息を知らせる手紙を書くなど特別な
 気配りをしていた。不死身かと思われた内蔵太だが慶応2年5月2日、社中所有の洋型帆船「ワイルウェフ号」を長崎か
 ら鹿児島へ回漕途中、暴風雨にあって遭難死した。龍馬は亀山社中の同志と共に五島列島中通島有川へ行き遭難した
 同志の墓を立て冥福を祈ったと伝わる。

■沢村惣之丞(関雄之助)土佐藩  天保14(1843)-明治1(1868)
 地下浪人(土佐の武士の身分では最下級)の家に生まれた。
 1862年3月吉村虎太郎とともに脱藩。同月、長州から密かに帰国し龍馬と再脱藩した。海舟門下、神戸海軍操練所を
 経て社中へ参加。優秀な人で、航海術に長けていたという。
 慶応4年1月、龍馬亡き海援隊は長崎奉行所を占拠。このとき酒気を帯びて抜刀し玄関で暴れている者を撃ち殺した。
 即死した暴漢は薩摩藩士であることが判明。是非はともあれ、薩摩藩との間に亀裂を生じさせるようなことは好まし
 くないとの判断から自刃してしまった。
 辞世の句「生きて世に 残るとしても 生きて世の 有らむ限りの いのちなるらめ」

土佐藩
■佐々木高行(佐々木三四郎)天保元年10月12日(1830年11月26日) - 1910年(明治43年)3月2日)
 幕末の土佐藩士、明治時代の政府高官の中でも保守派を代表する一人である。幼名は万之助、通称は三四郎。侯爵。
 明治政府では参議・司法大輔・侍補を務めた。宮中や元老院を舞台に谷干城・元田永孚らともに「天皇親政運動」を
 主導して、明治天皇を擁して伊藤博文ら政府要人の排除に動いたために「中正党」と称された。
 明治29年、皇典講究所第2代所長就任した。

 



 


 

 

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