明治中期長崎で活躍した3人のサムライ

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長崎歴史文化協会が毎年発行する「長崎の空」(第19集平成20年1月発行)より原稿執筆依頼があったので、
一昨年から興味を持って調べていた3人のサムライの長崎での接点について以下の文章を寄稿した。
(ただし、写真はこのサイトのみで公開する)
以前からコラムにも書いているがこの3人の数奇な人生にはまだまだ多くのドラマがあるようだ。

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明治中期、長崎の近代化に貢献した三人のサムライ
                                    平野 惠子
              
 幕末、戊辰戦争を戦い、生き残った三人の男たちが、明治二十年前後の長崎で活躍していた。波乱の青年期を送った彼らには興味深い接点や共通点がある。    
 この三人とは、第八代長崎県令(知事)・日下義雄、初代長崎市長・北原雅長、三菱経営になって初代高島炭鉱坑長および初代長崎造船所長・山脇正勝。
日下と北原は会津藩士、山脇は桑名藩士であった。幕末時の会津と桑名の藩主は実の兄弟で、戊辰戦争では、両藩主とも徳川幕府への忠誠を貫いて新政府軍に徹底抗戦し、多くの犠牲を被っている。

 日下義雄は、本名を石田五助と言い、飯盛山で自刃した白虎隊隊士石田和助の実兄である。
当時十七歳の日下も幕臣の大鳥圭介たちと共に戦い、落城前会津を脱出して箱館戦争に加わった。箱館戦争終結時捕虜となったが、赦免された後は井上馨の助力で岩倉使節団の一員として欧米を回った。
その後もロンドンで経済学を学んで内務省などで活躍、その手腕を見込まれて、明治十九年、第八代長崎県令として長崎に着任した。海外先進国を見てきた日下は、産業育成や市民生活の近代化のために公衆衛生の改善に力を入れた。土葬を禁止し、検疫所や伝染病病院の前身になる施設を作り、チェコの保養地にならってカルルスや日見街道に桜を植えたりした。
そのような日下の業績で特筆すべきは、水道工事着工だろう。横浜、函館に次いで日本で三番目となる長崎の水道は、日本初のダム式貯水池を持った近代水道で、このとき建設されたダムが本河内高部水源地のダムである。『長崎市水道90年の歩み』によると、水道工事には膨大な費用が掛かるため、当時の長崎は水道賛成派と反対派に割れて、「くんち」も危ぶまれるほどの騒動になったらしい。その騒動は国政に飛び火し、そのため日下は明治二十二年建設半ばで知事を罷免されてしまう。長崎を離れた日下は、その後、福島県知事として故郷に帰り、鉄道会社を興したり、国会議員を務めたりしている。

 北原雅長は、会津藩家老神保内蔵助の次男で母方の北原の姓を継いだ。
兄は、戊辰戦争勃発の責任をとって切腹した家老神保修理。藩主と共に落城まで戦った北原は、戦争責任者となった家老萱野権兵衛の切腹に立ちあうなど戦後処理に尽力した。この戦争で北原の実父神保内蔵助や兄嫁神保雪も自刃するなど、短い間に四人もの身内や先輩の無念の死を体験している。
維新後は工部省に入り、その後、長崎県少書記官對馬司として長崎に赴任した。
明治二十二年の市町村制施行選挙で、水道建設反対派が擁立した市長候補として、賛成派の金井俊行を破って当選し、初代長崎市長に任命された。任命後は、日下や金井が渾身の思いで進めてきた水道事業を引き継ぎ、水道が原因で二分していた町々の関係改善に努め、明治二十四年水道工事を完成させた。
長崎を離れた後の北原は、朝廷の会津藩への信頼の証しとなる勅書の存在を明かした「七年史」を執筆発表し、会津藩の復権に尽くした。

 山脇正勝は、桑名藩重役を父に持ち、藩主松平定敬の小姓の一人として仕えていた。
戊辰戦争で藩が恭順に傾くと、抗戦をとなえる藩主の意を汲んだ父から恭順派家老暗殺を命じられ、高木と共に実行した。二人は徹底抗戦する藩主を追って会津などを転戦し、箱館戦争直前に箱館に渡るが、藩主はすでに箱館を離れていた。二人は、土方歳三率いる箱館新選組に入隊して戦い、弁天台場で捕虜になった。『新選組隊士名簿』に残る「大河内太郎」「神戸四郎」という名は山脇正勝と高木貞作が使った偽名である。
赦免後、多芸谷太郎太と名乗った山脇と高木は、岩倉使節団とともにアメリカに渡った。名前を変えたのもアメリカ行きも、暗殺のこともあり国元に帰れない事情があったのだろう。
アメリカで岩崎弥之助と知り合った山脇は、帰国後郵便汽船三菱会社に入社。上海支社長を経て、明治十四年三菱が買い取った高島炭鉱の抗長として長崎に着任した。
当時の炭鉱夫たちは荒くれ者が多かったが、山脇は抗夫たちから慕われていたようだ。「高島炭鉱史」によると、山脇が抗長の時期に画期的な出炭量を記録している。
明治十七年、官営だった長崎造船所が三菱に貸与されたのを機に、山脇は高島炭鉱抗長と兼務で初代長崎造船所支配人(所長)になった。その後明治三十年まで、長崎造船所長を務めて本社に戻り、程なくして三菱を退職。五十歳の若さで第一線から退いている。
 『幕末の桑名』(バーバラ寺岡著)などによると、山脇の口癖は「商売は相手と利益山分け」だったという。一人勝ちを嫌い、私利私欲のない古武士のような風格で現場から大変慕われたようだ。
また、山脇は、現場の抗夫や工員たちに向かって「酒は大いに飲んでも良いぞ、しかし、仕事は手を抜くな」と言っていたそうだ。工員たちに囲まれながらこの言葉を言う山脇の姿は、箱館戦争緒戦二股口の塹壕で酒を配りながら兵士をねぎらう土方歳三と重なってみえる。山脇は二股口戦には参戦していないが、その様子を聞いていたはずだ。自分が率先していくさの先頭に立つ土方は兵士に慕われていた。同じように人生の修羅場を経験した山脇も人を惹きつけるリーダーになっていたのだろう。余談だが料理研究家バーバラ寺岡さんは山脇正勝の子孫にあたる。

 戊辰戦争の渦中で「賊軍」のサムライとして修羅場を経験した三人が、同時期に長崎にいたのは、明治十九年から明治二十二年末までの三、四年間。この間に、知事、市長、産業界のトップが同席する機会は多々あったと思われる。日下と北原は共に会津藩士。日下と山脇は箱館で戦い捕虜になっている。彼らがお互いの前身を知っていた可能性は高い。
三人が一同に介したとき、どのような話をしたのだろうか。興味はつきない。  (長崎史談会会員)
                           

 

 

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