土佐藩・佐々木高行

ホーム幕末明治の長崎再見大徳寺で見つけたもの

土佐藩・佐々木高行の名前が刻まれた灯籠台座を見つけたこと

○長崎市内丸山の隣に大徳寺という場所がある。長崎七不思議で「寺もないのに大徳寺とは」といわれているところ。昔はお寺があったそうな。
この場所は、私にとっては馴染みが深く、何度も何度も通っているところ。べつに菊水の梅が枝もちのためではない。

この場所が「梅香崎招魂社と梅香崎墳墓」の跡地だからだ。
招魂社というのは、幕末以降、国のため戦い殉死した人をお祀りした、靖国神社と同じような性格の神社のこと。梅香崎招魂社・梅香崎墳墓は戊辰戦争(奥羽征伐・函館戦役)などで殉職した43名をおまつりしている。

幕末の長崎では、長崎の町中を警護する目的で長崎奉行所の下、地役人や浪士を集め遊撃隊が組織された。明治維新には、遊撃隊は新政府に仕えることになり、明治元年(1868)2月長崎裁判所総督:澤宣嘉によって振遠隊と改称される。この振遠隊のなかには龍馬亡き後の海援隊のメンバー数人も参加していたと思う。
振遠隊は6月24日、新政府軍の要請を受けて東北地方に派遣されることになり、海路秋田に向かい庄内軍と戦った。その後東北諸藩の降伏が始まり振遠隊は盛岡城を受取り、10月19日凱旋、12月20日に長崎に帰ってきた。このときの戦病死者17名を招魂場を設け埋葬することになり、明治元年(1868)12月26日に葬儀を行った。翌年、箱舘戦争時、箱舘新政府軍の砲弾を浴びて爆発沈没した朝陽艦の乗組員のうち長崎出身者26名の遺髪も招魂場に埋葬され、その際、梅香崎招魂社・梅香崎墳墓地と改称したと聞く。その後、佐古招魂社、佐古墳墓地のほうに移転しているので、この場所には今は石碑しか建っていない。

実は、以前、この場所でおもしろいものを発見した。
灯籠の台座だったと思われる石碑だが、その表面に刻まれている文字はなんと

表「佐々木刑部大輔源高行建」、側面「明治二稔己巳八月」

土佐藩の佐々木高行が建立したものと思われる。
佐々木高行は、龍馬とともに大政奉還の策をねったり、龍馬亡き後の海援隊の後ろ盾になったり、明治維新時の長崎の治安維持にも尽力したりし、のち明治政府の高官になった人物。
明治2年8月に、招魂社に灯籠を献灯しているのは、きっと朝陽艦の乗組員への供養のためと想像できる。
朝陽艦で戦死した長崎出身者のほとんどは船乗りだと聞いている。海援隊や土佐藩の船に関わった人がいたのかもしれない。

   



 


 

 

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