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ホーム佐古招魂社>警視局四等巡査 樋口 厳吾さんについて

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長崎微熱人から

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・佐古招魂社に祀られている西南戦争戦死者、樋口厳吾さんについて、少し情報がはいった。

西南の役で没した警視局関係者の墓碑群の中にある樋口厳吾さんの墓碑には次のように刻まれている。

表面:警視局四等巡査 樋口 厳吾墓
右側面:明治十年四月十二日傷于肥後国山本郡植木之役同月十八日没于長崎警視病院齢十九年八月
左側面:植木口警視第四番小隊 千葉県士族

この墓碑銘によると、警視局四等巡査だった樋口厳吾さんは、明治10年4月12日、植木での戦闘で受傷し、18日に長崎警視病院で亡くなった。19歳8ヶ月の若さだった。
樋口厳吾さんの所属は植木口警視第四番小隊。千葉県出身の士族となっている。


2008年の年末、「長崎微熱」を通して知り合ったOさんが樋口厳吾さんの墓参に来てくれた。
Oさんのご先祖は会津出身とのこと。
そのこともあってか、Oさんは数年前から会津樋口家を調べている。彼女の関係者のなかに樋口萬吾という名前があり、佐古埋葬の樋口厳吾と同一人物ではないかとのメールをいただいたのがきっかけで知り合った。

彼女が調べていた会津樋口家の中に、樋口厳吾さんがいた。
樋口厳吾さんは、会津藩士・樋口光武の五男。
兄(四男)は、白虎士中一番隊に属し籠城戦にも加わった樋口彦四郎だという。
樋口彦四郎は明治になって実業家として成功している。 樋口彦四郎のご子孫は現在世田谷にいらっしゃるとのことだ。

西南戦争で19歳で戦死した厳吾さんは、会津戦争時は、10歳前後。逆臣の子としてその後どのような人生を送り、警視局巡査になったのだろうか。墓碑銘の出身地が千葉県になっている。兄の彦四郎は維新後長野に移り住んだと書かれている。一家はばらばらになってしまったのだろうか。
厳吾さんの子孫がいないということは、19才の彼は独身だったのだろうか。少年期を戦争と貧困のなかで過ごした厳吾さんは恋をすることなく死んでいったのでないだろうか。

Oさんによると、樋口厳吾さんの会津若松の総本家には、厳吾さんは「大変優秀な人物であった」ということが伝わっているらしい。

その総本家というのは、会津藩士樋口真彦の次男・樋口伊都羽(いづは)のご子孫にあたるらしい。
樋口真彦は戊辰戦争敗戦後上京。次男伊都羽は明治30年代に生活苦の中、朝鮮に渡り警察官になったが、その後、現地で捨てられてる明太卵の商品化に取り組み明太子産業を起こした。日本の明太子は旧会津藩士の息子樋口伊都羽によって開発されたと言っていい。詳しいことは「明太子開発史ーそのルーツを探る」に書かれている。
  西南戦争で戦死した警視局関係者の墓標群

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